三井寺 仁王門

滋賀県大津市にある園城寺(おんじょうじ)
通称の三井寺(みいでら)の呼び方がよく知られているお寺です。

琵琶湖を見下ろすことができる長等山(ながらやま)の中腹にあり、天台寺門宗の総本山となっています。

中世を通じて、東大寺、興福寺、延暦寺と並んで四箇大寺の一つとして栄え、現在も国宝を含む数々の寺宝が伝わっています。

境内も広く、森閑としていて、四季折々の風景が見られます。
散策が心地よいお寺です。

三井寺の歴史と、境内の見どころを紹介します。

三井寺の開創と発展

三井寺の信仰は、開創当時と、中世から現在にかけてで、お寺の性質がガラッと変わっています。
そのあたりをわけて歴史を紹介します。

大友皇子の菩提を弔うお寺として創建

弘文天皇御陵
三井寺 北院 弘文天皇(大友皇子)御陵

三井寺は、「壬申の乱」で敗れた大友皇子の菩提を弔うために686年に創建したお寺です。
その時、天武天皇から「園城寺」という名前を貰っています。

壬申の乱は、都を大津京に移した天智天皇(中大兄皇子)の死後に起きた皇位継承争い。
天智天皇の弟である「大海人皇子」と、天智天皇の息子の「大友皇子」の間で勃発しました。

結果、大海人皇子が勝って天武天皇になり、敗れた大友皇子は自害しています。

大友皇子の子・大友与多王は、天武天皇の許しを得て、父の菩提を弔うお寺を建立することにしました。

そのような理由で、最初の三井寺は、大友氏の氏寺としてスタートしています。

円珍によって密教寺院化し、飛躍的な発展を遂げる

智証大師 円珍
(画像:大津歴博だより2010 No81より)

大友氏の氏寺、という性質をガラっと変えたのが、智証大師 円珍です。

円珍は、天台宗の祖「伝教大師 最澄」、そして「慈覚大師 円仁」と並び、「天台三聖」の一人に数えられます。
どういう人物か?ということは、こちらに書きました。


秘仏公開多数!智証大師 生誕1200年慶讃大法会中の三井寺を訪れました。

円珍は、唐に渡って空海を超える新しい密教を総合的に学んできた、天台宗のスーパースター。
そんな円珍が、唐から持ち帰ってきた典籍・図像・法具類の置き場として選んだのが三井寺でした。

比叡山延暦寺で天台座主(天台宗の一番偉い人)になった円珍は、三井寺を天台別院とし、法を伝える道場として伽藍を整備します。
この時から三井寺は密教寺院として舵をきったわけです。

円珍が行った天台密教の思想形成の功績は大きく、朝廷や藤原摂関家も三井寺に帰依(信仰のよりどころとすること)をしたので、東大寺・興福寺・延暦寺と並んで三井寺が四箇大寺の一つになるまでになったのです。

比叡山上での対立から延暦寺と物別れに

円珍と円仁はお互いを認め合い、助け合って延暦寺を盛り上げてきたのですが、円珍も円仁も亡くなった後、それぞれの門流の派閥ができました。

そして仏法の解釈の違いから対立が生じ、円珍ゆかりの坊舎が破壊される、といった事件まで起こるほど激化したので、円珍派は比叡山を下山して三井寺に難を逃れます。

それ以来、三井寺は天台別院の性格を一新して円珍派の中心寺院となり、「天台寺門宗」として延暦寺とは別の道を歩むことになったのです。

法難から何度も蘇った不死鳥寺

弁慶鐘 絵馬

三井寺は「天台寺門宗」として独立して以来、時代に翻弄されて何度も伽藍を焼失するほどの法難に会っています。

とりわけ多かったのは、延暦寺との闘い

円珍派(寺門派)と円仁派(山門派)の対立は、次第に三井寺と延暦寺の確執抗争として発展していきます。
武蔵坊弁慶が、三井寺の鐘を一人で引きずって、比叡山に持ち帰ったという伝説は有名です。

その抗争は平安時代に始まり、なんと戦国時代の終わりごろまで続きます。

それによって三井寺は何度も山門宗徒に襲撃・放火され、何度も焼失しているのです。
大きいものだけでも9回もあります^^;

他の法難もピックアップしてみると、

  • 治承四年(1180);源氏に味方し、平氏によって全山焼き討ち(金堂のみ残った)
  • 建武三年(1336):三井寺合戦。足利氏に味方し、新田義貞軍と山門宗徒によって焼き討ち
  • 文禄四年(1595):豊臣秀吉による突然の闕所(けっしょ)(寺領を没収すること)

時代の節目に必ずと言っていいほど灰燼と帰すほどの法難にあっていますね。

三井寺はそれだけ権力に近い存在だったということでしょう。
そして権力に近い分、再興するのにも権力が力を貸してくれています。

現在の建物の多くは、秀吉の正室「北政所」や「徳川家康」などによるものです。

そうやってお寺がなくなりかけながらも不死鳥のように復活、今も存在し続けているわけです。

寺宝類も、こんなにも焼き討ちにあっていながら、奇跡的に多数残っています!
権力者だけでなく、守ろうとした庶民や僧が多かったということですね。

三井寺の本尊にして絶対秘仏「弥勒菩薩」を祀る「金堂」

三井寺 金堂

豊臣秀吉の正室、”ねね”によって再建された金堂。
形の整った美しい建物ですね^^
国宝にも指定されています。

金堂に残る奈良時代の弥勒信仰

三井寺 金堂

金堂(こんどう)」というのは、密教寺院におけるお寺の中枢となる建物のことで、お寺の信仰の根幹であるご本尊が祀られています。

三井寺の金堂で祀られている本尊は、天智天皇の念持仏(身近に置いて拝んでいた仏像)であった「弥勒菩薩」です。

天智天皇は大友皇子の父親ですから、大友皇子は父の念持仏も大事にしていたのかもしれません。

天智天皇は、大津京を開いた方ですから、その念持仏をお寺の守り仏に置きたい、と考えるのも自然な流れです。
だから金堂にその弥勒菩薩が祀られているのではないか、と私は思っています。

そしてその弥勒菩薩は絶対秘仏とされています。

つまり、厨子の扉を閉ざされ、御開帳することがない仏像なんですよね。

他にも、推古天皇、聖武天皇、陽成天皇、藤原鎌足、藤原道長、行基菩薩が奉納した弥勒菩薩も一緒に祀られているそうです。
奈良時代の弥勒信仰の一大拠点だった一面が見えますね。

ただし、それらも含めて一切秘仏。

御開帳される特別な機会、というのも今までにないので、これから先も残念ながら見ることはできないと思われます。
三井寺のお坊さんでも見たことがないのだそうですよ^^

ただ、金堂は内陣を中心にして、外陣がぐるっと回れるようになっていて、そこにはたくさんの仏像が安置されています。
内陣を警備するかのように置かれていて、それらはなかなか見ごたえある仏像ばかり

その中でも私は、北極星を神格化したという「尊星王」が気に入っています。
なかなかの「イケ仏」です^^

三井寺 尊星王
(※画像:ポストカードより)

以前の金堂は延暦寺に?

三井寺は、理由は不明なのですが秀吉の怒りを買ってしまい、寺領を没収されてしまう、事実上の廃寺の危機に追い込まれたことがあります。
その時、堂塔は解体・破却され、多くは比叡山の堂舎に当てられています。

その時解体された金堂は、現在比叡山延暦寺 西塔の釈迦堂になっています。

秀吉は、霊験あらたかな三井寺を廃寺に追い込んだことで祟りを恐れていたので、死の直前に三井寺の再興を許可しました。
それで”ねね”が再建したというわけです。

三井寺には「新羅明神」という、祟りを恐れられた神もいますからね^^;


謎に満ちた新羅明神を祀る「新羅善神堂」と三井寺北院を散策

なぜ死ぬ間際なのに祟りを恐れたのか?
それはおそらく、後継ぎの秀頼がまだ小さかったからかもしれませんね。

「三井寺」という名前の由来となった霊泉

三井寺 閼伽井屋

金堂の横に、天智・天武・持統天皇の誕生の際に産湯に用いられた清水が湧く場所があります。

それが、閼伽井屋あかいやという井戸。

実はここに、園城寺が”三井寺”と呼ばれるようになったルーツがあります。

元々は、三帝誕生の際に使った井戸、ということで「御井(みい)之地」として尊ばれていたそうです。

それをさらに広く有名にしたのが円珍です。
「三井寺」という通称は、円珍が園城寺を天台別院にしたころから呼ばれているようです。

「閼伽井」というのは、密教の儀式をする際に使う水を汲む井戸のことなのですが、円珍がここの水を儀式で使うようになって、そう呼ばれるようになりました。

その儀式の名前が「三部潅頂」というもの。
仏と縁を結んだり、継承者として認めたりする重要な儀式です。

円珍がもたらした最新の密教は、当時注目の的でしたから、御井(みい)三井(みい)に転じて、「三井寺」と呼ばれるようになった、というわけです。

中を覗くと、磐座にしめ縄がかけられています。

三井寺 閼伽井屋

この泉には、水を司る龍神が住んでいるそうなのです。

ただ、この龍は昔、夜な夜な琵琶湖に出て暴れていたとのこと。
そこで、江戸時代初期の彫刻の名匠、「左 甚五郎」が龍の彫刻を彫り、目に五寸釘を打って鎮めたとされています。

その彫刻が、閼伽井屋の正面上にあります。

三井寺 左 甚五郎

ただ、この龍の彫刻は、急な角度でしか見えず、一見がどこなのかもわかりにくいですね^^;
しかも金堂の陰に隠れて少し暗め。
(写真もちょっとブレていました^^;)

なので私はカメラで撮って家のパソコンでアップにして確認しました。
顔は正面にあることはわかったのですが、五寸釘が打たれているのは見受けられませんでした^^;

今は外しているのかもしれませんね。

ちなみにこの龍は、年に十日、丑の刻に姿を現わすそうです。
その日は泉のそばに近づいてはいけないとも言われています。

竜宮伝説が伝わる三井寺の鐘

三井の晩鐘

金堂前には、近江八景の1つに選ばれる「三井の晩鐘」があります。
その音色が美しいということから、日本三銘鐘のひとつに選ばれています。

この鐘は二代目なのですが、一代目も負けじとインパクトのある「弁慶の引き摺り鐘」と呼ばれる鐘です。

弁慶の引き摺り鐘

そしてそのどちらにも伝説が語られています。
琵琶湖に住む龍神伝説や、弁慶の怪力伝説があるのですが、詳しくはこちらに書きました^^


三井寺の鐘にまつわる伝説

三重塔が美しい!智証大師信仰の中心地「唐院」

三井寺 唐院

三井寺で一番重要な場所が「唐院」と呼ばれる場所です。
唐院というお堂があるのではなく、智証大師御廟(円珍の墓所)を中心とする一廓の総称で、大師堂、潅頂堂、三重塔、護摩堂を合わせて唐院と呼びます。

三井寺が千年以上の歴史を重ねてこれたのも、熱烈な智証大師信仰があったからこそなのですが、その中心地がまさにここなのです。

ここには、円珍がもたらした秘仏秘宝が保管されていて、重要な密教儀式を行う場所にもなっています。

今まで三井寺は何度も焼き討ちにあっていますが、そういう時に最初に復興するのはこの唐院からで、円珍像を安置することから開始するのが習わしとなっているそうです。

そのようなことから唐院は、三井寺が一番重要としている場所だということがわかります。

普段は中に入ることができないのですが、以前大師堂が御開帳されたことがあって、その時に貴重な秘仏である2体の智証大師像と黄不動尊立像を拝むことができました。


秘仏公開多数!智証大師 生誕1200年慶讃大法会中の三井寺を訪れました。

なかなかチャンスは少ないですが、御開帳のチャンスがあるときはぜひ拝観したいところです。

一切経を納める回転式書架のある「一切経蔵」

三井寺 一切経蔵

唐院のすぐそばに、三井寺の雰囲気とはちょっと違った、禅宗っぽい建物があります。

重要文化財の「一切経蔵」です。

この建物は、仏教の全ての経典、つまり一切経を納めるためのもの。
中に入ると八角形の回転書架があります。

三井寺 一切経蔵

この書架、見上げるほどの大きさで、圧倒されてしまうほど。
たくさんの引き出しがありあすが、そこには版木の一切経が納められています。

一切経蔵は1602年に毛利輝元により、山口県の国清寺より移築・寄進されたものです。

江戸時代には今のような重機はなく、運搬するのは全て人手で行いますから、「移築」と言っても簡単ではなかったはず。
それでも移築を成し遂げたのには理由があります。

毛利家と言えば、中国地方の大大名ですが、元々は安芸の国(広島)の一国の領主にすぎませんでした。
お隣の国々とも争いが絶えない状態が長く続いていたのですが、その調停役を担ったのが三井寺だったのです。

その時から、毛利家と三井寺は交流があったわけです。

毛利輝元は秀吉から五大老に任じられていますが、秀吉の死の前日、五大老の連盟で赦免を働きかけています。
それだけ三井寺再興にかける思いが強かったのでしょうね。

境内に移った園城寺五別所

三井寺の境内は広く、北院、中院、南院と分けられています。
先に紹介した「金堂」や「唐院」があるのは中院で、後で紹介する「観音堂」があるところは南院です。

かつては、その境内よりもさらに外側に「別所」というものがありました。

「別所」は、民衆との交流を目的とした、三井寺の窓口のようなもの。
つまり、布教活動をするためのサテライト寺院といった感じでしょうね^^

そんな別所がかつては5つあったようです。
それが

  • 微妙寺
  • 水観寺
  • 近松寺
  • 尾蔵寺(廃寺)
  • 常在寺(廃寺)

です。
そのうち、近松寺だけは創建当初の場所、三井寺から歩いて10分ほどの長等公園の近くにあります。

微妙寺と水観寺は、三井寺の境内に移されていて、拝観することができます。

かつては参拝者が溢れかえった十一面観音を祀る微妙寺

微妙寺

微妙寺は今でこそ1つのお堂ですが、かつては長等公園の西山麓に広がり、薬師堂、千手観音堂、明王堂といった堂舎が建ち並んでいたそうです。

「別院」なので、三井寺の子院という小さなお寺を想像しましたが、結構大きなお寺だったようです。

それにしても、お寺の名前。
「微妙」というと、なんだかイマイチなお寺に思えてしまいますよね^^;

良いとも悪いとも言えないグレーゾーン、どちらかというとマイナス評価な意味合いで使われることの多い「微妙」という言葉。

実は仏教においては素晴らしさを表現する言葉なのです。
しかも、人智を超えた不思議で奥深いもののこと。

まったく正反対ですね^^;

では、何が「微妙」なのか、というと、それはおそらくご本尊の十一面観音菩薩のことでしょう。

この十一面観音菩薩も天智天皇の念持仏だったそうで、厄除け開運、健康長寿、財福授与などのご利益を求めて参拝者が押し寄せたのだとか。

あまりの押し寄せぶりに、参拝者の頭にかぶる笠が脱げたり破れたりするほどだったのだそうです。
その逸話から、「笠ぬげの観音さま」と呼ばれています。

その霊験あらたかさから湖国十一面観音霊場 第一番札所にもなっていますよ。

その十一面観音菩薩は、今までは土・日・祝日と毎月17日・18日のみ御開帳だったのですが、2014年10月にオープンした文化財収蔵庫に移され、いつでも見ることができるようになりました。

三井寺 文化財収蔵庫

収蔵庫は、微妙寺の向かいにあります。
入館料は別途300円必要です。

かつては大伽藍別所だった「水観寺」

三井寺 水観寺

水観寺は、観音堂(百体観音堂側)から三井寺の駐車場の方へ向かって真っすぐ階段を下りた場所にあります。
人通りが少ない場所にあるんですよね。

お堂も一つのみ。

でも、このお寺も微妙寺以上の大伽藍を備えていた寺院でした。

元々あった場所は、三井寺の仁王門から真っすぐ伸びる大門通の北側。
そこに、中世の最盛期には東西に総門を構え、本堂、薬師堂、法華堂、如法堂、三重塔、鐘楼などがあったそうです。

伽藍の揃い具合から推測すると、一つの大寺院に匹敵しそうですよね^^

創建当初は十一面観音を本尊とするお寺でしたが、豊臣秀吉による闕所で紛失、それ以降は薬師堂にあった薬師如来を本尊として祀っています。

薬師如来は、一切衆生を病苦、災難から救済するという仏さま。
水観寺の薬師如来は西国薬師霊場の第四十八番札所にも指定されています。

三十三年に一度御開帳される秘仏を祀る「観音堂」

三井寺 観音堂

境内の南側「南院」と呼ばれる場所は高台になっていて、その一郭に西国三十三所第十四番札所の観音堂があります。
ここには、三十三年に一度御開帳される秘仏「如意輪観音坐像」が祀られています。

如意とは如意宝珠のこと、輪は輪宝のことで、合わせて衆生に財宝を与え、煩悩を破る仏として信仰されてきました。

観音堂の如意輪観音坐像は、円珍が感得(感じ取って悟ること)し、自ら彫刻したものと伝わる、平安時代作の仏像です。
円珍の祈りが込められた如意輪観音、ということですから、霊験あらたかそうですよね^^

一般的に、如意輪観音にはこのような特徴があるとされています。


如意輪観音の特徴

観音堂は元々、後三条天皇(1034~1073年)の病気平癒を祈願して、現在の観音堂よりもさらに山上に「正法寺」というお堂を建立、そこに祀ったのが始まりでした。

その後、室町時代になって、三井寺の僧侶がそろって同じ夢を見ます。
それは、観音様が「山から下りて、もっと近くで衆生を救いたい」と告げる夢。

それを機に現在の地に移されたのだそうです。

現在の観音堂は、元禄二年(1689)に再建されたもの。
実は貞享三年(1686)に火災で全焼しているのです。

観音堂の内部には、元禄三年に奉納された「石突き図」「観音堂落慶図」などの絵馬が残されています。
内陣拝観が催されている時にしか見ることはできませんが、それを見ると、いかに観音堂の復活が待ち望まれていたか、当時の人の気持ちをうかがい知ることができます。

私は以前、御開帳の時に秘仏の如意輪観音坐像を目の前で拝観することができたのですが、その観音様がどういうお姿なのか?
というのは、こちらで少しだけ紹介しました。


秘仏公開多数!智証大師 生誕1200年慶讃大法会中の三井寺を訪れました。

観音堂前からは、さらに高台に上り、琵琶湖を一望する景色が広がります。

三井寺 景色

晴れている日にここに来ると、気持ちが良いですよ^^

観音堂前にはおみやげ物が買える売店があります。
ここでは名物の三井寺力餅を頂くこともできます。


三井寺は境内が広く、そんなに混まないので気持ちの良いお寺です。
また、桜や紅葉の名所でもありますし、その時期はライトアップも行われますよ^^

三井寺の御朱印に関しては、多かったので別記事にしました。


園城寺(三井寺)の御朱印