大津 自然の道 歴史の道

滋賀県にある天台寺門衆総本山 園城寺(通称 三井寺)は境内が広く、大きく分けて北院、中院南院の3ヵ所に分かれています。

観光地として有名なのは中院と南院で、中院には中心となる金堂、南院には西国三十三所の札所になっている観音堂があります。
この二か所は境内で繋がっていますし、観光バスも停まるので賑わいをみせています。

一方で、忘れさられたかのようにあるのが北院です。

北院には、智証大師ゆかりの新羅明神を祀る新羅善神堂(しんらぜんしんどう)や、日本の美術の恩人、アーネスト・フェノロサの墓がある法明院(ほうみょういん)などがあります。

特に、新羅善神堂は国宝ですし、祀られている新羅明神像も国宝なのですが、三井寺に行くと案内板がないのです。
どうも扱いが小さいんですよね。

これは一体どういうことなのか、と思い、三井寺のすぐそばにある大津市歴史博物館の「三井寺 仏像の美」を見に行った帰りに、北院周りを歩いてみました。

北院の散策

「三井寺北院」といっても、北院の敷地で囲まれている場所があるわけではありません。
三井寺に関係する建物が、民家や森の中に点々としているので、一般道や森の中を周ることになります。
私は、

大津市歴史博物館 ⇒ 弘文天皇御陵 ⇒ 新羅善神堂 ⇒ 法明院(フェノロサの墓) ⇒ 新羅三郎の墓

と周りました。

三井寺(中院)から弘文天皇御陵へ

北院は大津市役所や大津市消防局の裏あたりにあります。
でも、三井寺からは少し歩く必要がありますし、何より案内看板も出ていないので、行ってもわかりにくいんです^^;

県道47号線を三井寺から大津市役所の方に向かって歩き、市役所、消防局を越えてもう少し歩くと、こういうオブジェに出会います。

大津市役所 オブジェ

後ろの石碑に注目すると「弘文天皇御陵参拝道」と書かれています。

弘文天皇御陵 石碑

この道を行きます。
案内看板はないのですが、歩いてすぐ「FURIAN山ノ上迎賓館」という建物が見えてくるので、そこを左に曲がります。
すると、このような道になっています。

弘文天皇御陵 参拝道

右に石碑のようなものが立っていますが、これには「地蔵尊」と書かれています。
この「地蔵尊」の方に行くと、新羅善神堂の横に出ます。
まっすぐ行くと、弘文天皇御陵と新羅善神堂の正面入り口に行くことができます。

こちらが弘文天皇御陵。
大津市消防局のちょうど裏ににあります。

弘文天皇御陵

弘文天皇は第39代天皇で、天智天皇の第一皇子、大友皇子のことです。

天智天皇が崩御すると、息子の「大友皇子」と、天智天皇の弟「大海人皇子」との間での皇位継承争い「壬申の乱」が勃発。
大友皇子はその戦いに破れて自害しました。
大海人皇子はその後「天武天皇」として即位することになります。

大友皇子が、天智天皇崩御から壬申の乱で敗れる間に、実際に天皇として即位したのかどうかはわかっていないのですが、大友皇子は太政大臣として近江朝廷を支えていたこともあり、天智天皇崩御に伴って即位した、という説が有力になっています。
ということで、明治3年になって諡号が贈られ、天皇として認められています。

今でこそ三井寺は、智証大師 円珍ゆかりのお寺となって以来は密教寺院としての色が濃いですが、元々は大友皇子の霊を弔うために創建されたお寺なんです。
なので弘文天皇御陵も三井寺と深い関係があるということです。

この辺りは「皇子山」という名前が使われていますが、もしかしたら大友皇子が関係しているのかもしれませんね^^

弘文天皇御陵から新羅善神堂へ

弘文天皇御陵の入口の向かいには、こんな鳥居が建っています。

新羅善神堂 鳥居

奥は管理されていなさそうな寂れた感のある境内になっていますが、鳥居は結構大きめ。
実はここは、新羅善神堂の入口なんです。
でも、奥に行くとこんな感じで、あまりの廃墟ぶりに不安になってくるんですよね。

新羅善神堂

なので、何があるのかわからず恐る恐る入って行ったのですが、奥に進むと新羅善神堂らしき建物が見えてきました!

新羅善神堂

説明看板があったので、間違いありません。

新羅善神堂

奥のお堂はきれいにされていそうなのですが、門は固く閉ざされ、周りは寂れた感がありました。

新羅善神堂

右側に回ると、かろうじて少しだけ登れそうなところがあったので、塀越しに本堂を撮らせていただきました。

新羅善神堂

本堂は国宝で、足場が不安定だったので、これが限界です。
足利尊氏による再興といわれる社殿で、きれいな屋根のカーブを描く三間社流造になっています。

欄間に緻密な透彫があるそうですが、中に入れないのでそこまでは見えませんね^^;

新羅善神堂の中には、国宝の新羅明神坐像が祀られています。

新羅明神(しんらみょうじん)が祀られたのは、三井寺中興の祖である「智証大師 円珍」が関係しています。

円珍は唐に渡って密教を勉強したのですが、「園城寺龍華会縁起」によると、円珍が唐から帰る時の船で老翁現れ、円珍が持ち帰った経典を守護することを誓ったのだそうです。

それが新羅明神で、円珍が持ち帰った経典の保管場所を探していた時に夢告で三井寺を勧め、当時の三井寺の住職だった教待和尚と円珍を引き合わせたのも新羅明神。

円珍が三井寺に経典を保管した後は、三井寺の北方となるこの地に鎮座したということになっています。

新羅明神坐像は絶対秘仏とされていますが、平成20年に大阪市立美術館で行われた「国宝 三井寺展」で公開されたことがあります^^;
御開帳はないかもしれませんが、今後もしかしたら、何らかの形でお目にかかれる機会はあるかもしれません。

新羅善神堂から法明院へ

法明院は多くの学僧を輩出した三井寺唯一の律院です。
大津市歴史博物館の「三井寺 仏像の美」では、法明院から出陳している素晴らしい仏画がたくさんありました。

印象に残ったものでは、絹本著色三井曼荼羅図、絹本著色尊星王像、紙本著色黄金剛童子像などがありました。

書院には、円山応挙や池大雅によって描かれた障壁画もあるそうです。
文化財の宝庫ですね^^

法明院の庭園墓地で眠っているアーネストフェノロサは明治時代の東洋美術史家で哲学者。
明治政府のお雇い外国人として来日、後の東京藝術大学や東京国立博物館の設立に深くかかわった人物です。

当時は西洋文化崇拝一辺倒の時代で、伝統的な日本文化が軽視されていた時代。
そんな時代に日本美術を高く評価し、ボストン美術館東洋部長として日本美術を世界に多数紹介しました。

さらにこの時代は廃仏毀釈運動で仏教がないがしろにされ、全国でお寺の伽藍などが破壊されていて、多くの仏像や仏画が古美術品が市場に安値で出回りました。

それらを出来る限り買い集めて、日本美術保護のために尽力したのです。

詳しくはこちらにも書きました。


大阪市立美術館の「ボストン美術館 特別展」に行ってきました。

フェノロサは仏教に帰依して三井寺で受戒しています。
そしてフェノロサ自身の遺志で法明院に葬られているのです。

新羅善神堂から法明院に向かうのですが、鳥居の横にこのようなかろうじて道になっている自然道があります。

長等山 自然道

ここを行きます。
といっても、必ずここを通らないといけないわけではありません^^;

FURIAN山ノ上迎賓館のところまで戻れば舗装された道を行くことができるのですが、新羅善神堂の境内に行き先看板があって、この道が法明院を指していたんです^^

他にも、石仏とか何かがあるかもしれないと思い、この道を選びました。
結果的にはこれといったものは何もなく、皇子が丘公園弓道場の横に出てきました(≧▽≦)

その横には、法明院の参道入り口があります。

法明院 参道

こういう道が続くのかと思いきや、途中から整えられた参道になりました。

法明院 参道

そしてたどり着いた法明院。

法明院

車やバイクがあるので、住んでいる住職さんはいるようですが、閉まっていました。

法明院

三井寺の寺宝を多く有しているはずなのですが、あまりオープンにはしていないようです^^;
横には庭園の入口がありました。

法明院 庭園入口

拝観料は100円。
横に拝観料入れがあります。

フェノロサの墓もこの奥にありますので、拝観料を払って進みます。
ちょっと進んだところに、「フェノロサ・ビゲローの墓」と書かれた案内板が立っていました。

法明院 フェノロサの墓

ビゲローはフェノロサと一緒に日本の美術品を収集したコレクターです。
この階段を進むと、まずは桜井敬徳阿闍梨の像があります。

法明院 桜井敬徳

法明院 桜井敬徳

桜井敬徳は法明院の住職で、フェノロサやビゲローを仏門入りへ導いた導師です。
この縁があるからフェノロサは法明院への埋葬を望んだのかもしれませんね。

そしてこちらがフェノロサの墓。

法明院 フェノロサの墓

私は今までフェノロサが救った日本の美術品をたくさん見ていますので、手を合わせて感謝の意を伝えておきました^^

法明院から新羅三郎の墓へ

新羅三郎は、河内源氏の2代目棟梁である源頼義の3男、源義光(みなもとのよしみつ)のことで、新羅善神堂で元服の儀式を行ったことから新羅三郎と呼ばれています。

武田信玄の先祖にあたる人物で、兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(加茂二郎)がいます。

この兄弟は名前に神社名のようなが通名がついていますが、それには理由があります。

この時代は、人の名前を直接呼ぶことがタブー視されていた時代でした。
言霊信仰の影響で、口に出した言葉は霊的な力が宿るとされていて、直接名前を呼ぶことは、呪詛するターゲットをロックオンすることにあたると考えられていたんです。

なので通名として、元服した場所の名前で名乗ったり、役職で名乗ったり、住んでいる場所などで呼んでもらっていたのでこのような名前になっています。

新羅三郎は弓馬の術に優れていて、東北地方で起こった「後三年の役」で苦戦していた兄の義家を助けるために奥州入りし、大活躍したのだそうです。

また、(しょう)という、雅楽などで使う管楽器や笛の名手でもあり、それにまつわる伝説も残っています。

新羅三郎の墓へは、ちょっとだけ山道を行く必要があります。
山道なので地図には道が表示されませんが、法明院の方から行くには、参道途中の自然道から行くことができます。

法明院 自然道

法明院 自然道

この道は、石敷きもない道になっていくので心配になりますが、道は一本道ですので迷う心配はないと思います。
しばらく行くと、鳥居が現れます。

新羅三郎 鳥居

そこに行くと、玉垣に囲まれた築山がありました。

森羅三郎の墓

どうやらこれが新羅三郎の墓のようです。
立派な築山ですね^^

新羅三郎の墓からさらに山道を進むと大津歴史博物館の裏手に出て、三井寺まで戻ることができますが、途中、手をつかないといけないほど悪道になっていますので、心配な方は法明院まで戻ることをお勧めします。

新羅明神の謎

新羅明神画像
画像:「三井寺秘宝展」の図録より

「新羅明神」の名前にある「新羅」は、かつて朝鮮半島にあった新羅の国に由来します。

新羅神社という神社は全国にありますが、それは新羅から渡ってきた人が、自国の神を祀った神社である可能性があります。
(他にも色々由来があるようです)

新羅善神堂で祀る新羅明神はそれとは違って、上で述べたように円珍が関係していることになっています。
円珍は唐に渡る際、日本が国の代表として派遣した「遣唐使」としてではなく、自分で唐に渡る船を探して渡っています。

なので帰りは新羅の船に乗せてもらったのかもしれませんね。

帰りの船では嵐にあっているのですが、神様が現れて助けてもらいました。
新羅の船だったので、助けてくれた神様は新羅明神だった、と考えることができます。

とはいえ、なぜ三井寺の守護神である新羅明神を祀る場所を廃墟のような状態のままにしているのでしょう?
不自然であることは否めません。

三井寺や、この辺りの歴史を調べてみると、ますますミステリーな部分がありました。

天智天皇と天武天皇は異父兄弟だった?

天智天皇の時代、朝鮮半島では新羅、百済、高句麗の三国がありました。
新羅は唐と手を組み、百済、高句麗を滅ぼすことになります。

天智天皇はその時、百済を救うために大軍を送りました。
その戦いを白村江の戦いといいます。

なぜ天智天皇は百済を助けようとしたのでしょう?

歴史上では、唐が百済の次は日本に攻めてくるかもしれないと思ったから・・・ということになっていますが、実は別の説もあります。

天智天皇は、女帝「皇極天皇」の皇子で、天智天皇と天武天皇は兄弟である、というのが一般的な歴史認識です。

別の説というのは、天智天皇は弟の天武天皇と父親が違うという説。
天智天皇の父親は、百済王族の高向王であるという説があるのです。

その説が正解だとすると、天智天皇は百済系の血を引くということですね。

そして先ほど紹介した大友皇子(弘文天皇)は天智天皇の息子ですから、百済系ということになります。
それに対して天武天皇は(詳細な説明は省きます)新羅系の血を引いているとされています。

ちなみに、その説は正しいのではないか?と思わせる話が、京都の泉涌寺にあります。

泉涌寺は、天皇家の菩提寺という位置づけになっているお寺です。
そこには歴代天皇の位牌があるわけですが、なぜか天武以後の天武系天皇8人の位牌がスッポリと抜けているというのです。

泉涌寺を創建したのは、都を平安京に写した「桓武天皇」。
桓武天皇は、天智系の血を引く天皇です。

泉涌寺に天武系の位牌がないのは、天智天皇が百済系、天武天皇が新羅系だったことを意味しているのかもしれません。

新羅明神を祀ったのは、天智天皇の怨霊を抑えるため?

ここで三井寺はなぜ創建されたのか?というところをもう一度確認すると、寺説では、

大友皇子の息子・大友与多王が、亡き父の霊を弔うために、天武天皇の許しを得て創建した

となっています。

つまり、三井寺は当初、百済系のお寺であったはずです。
そして、天武天皇の寛大な心で、お寺の建設が許されたような感じになっていますね。

しかしそこになぜ円珍は、百済を滅ぼした新羅の神を守護神に当てたのでしょう?

円珍は壬申の乱から200年くらい後の人ですが、時は過ぎ去ったとはいえ、お寺の由緒を考えると敵国であった新羅の神を祀るのはあまりに失礼ですよね^^;

井沢元彦さんの「逆説の日本史(2)」によると、

三井寺は、天武天皇が天智天皇の怨霊を抑えるために、大友与多王に命じて建てさせた

としています。

新羅善神堂の入り口は、弘文天皇陵のすぐ前。
まさに見張るように建っています。

天武天皇は、百済系の怨霊を退けるため、敵国であり自国の神でもある新羅明神をここに鎮座させた、となると新羅明神がここにいるのもなるほどな、と思います。

怨霊には祟り神で対抗、ということでしょうか?

天武天皇が建てさせた説は、あくまで井沢元彦さんの「説」ですけどね^^

こちらは、新羅明神の画像です。

新羅明神画像

三井寺ではこのような新羅明神の掛け軸を多数所有していて、時々大津市歴史博物館などで展示されますので、その時に見ることができます。
着ているものが日本の着物ではなく、まるで仙人のよう。
大陸の神らしい風貌ですよね。

それとは違い、新羅善神堂の新羅明神像は、秘仏とされており、なかなかお目にかかれません。
昔は新羅明神を見たものは目がつぶれる、祟りがあるとされていたそうです。

豊臣秀吉は、三井寺の領地を没収して、その堂宇はことごとく破却しました。
しかし、新羅善神堂だけは、その祟りを恐れて残したといいます。

このような神だから三井寺側もなかなか公開しようとしないのですが、最近ではなんと、2008年に大阪市立美術館の「国宝 三井寺展」で50年ぶりに公開されました。

新羅明神

その姿は、白塗りの顔に両目の間隔が狭く、目尻はかなり垂れ下がっています。
そして高すぎる鼻、指も異様に細長くて奇妙な感じで曲がっています。

掛け軸とは全然違う、あまりに異様な姿ですね。
祟り神であることを物語っているのかもしれません。

そういう神を祀る場所だからこそ、あえて人が来ないようにしているのかもしれませんね。


三井寺の北院は、整備されているとは言い難く、観光客が来ないのも納得ですね^^;
ただ、歴史に触れると面白い場所でもあります。
自分の目で見てみたい方は訪れてみて下さい。

追記:新羅明神関係のイベントがあって、記事にしました^^


三井寺の護法神が集結!特別公開イベント「あお若葉の競演」に行ってきました。