春日大社の創建1250年を記念して、奈良国立博物館で特別展「国宝 春日大社のすべて」が開催されています。
平成27~28年にかけて春日大社では、社殿や御神宝などを二十年に一度新しく新調する式年造替があったばかり。
社殿・御神宝が新調されたばかりなので、神様のご神威も上がっています。
そして今度は創建1250年ということで、今回の展覧会が開催されたんです。
春日大社は今、なかなかホットなスポットですね^^
こちらが展覧会のリーフレット。
リーフレットを見ただけでも、数多の豪華な奉納品や古神宝類が献上されてきたのがわかりますね。
それらが多く残されていることから、春日大社は平安の正倉院と称されています。
そのような扱いを受けてきたのも、春日大社は朝廷のナンバー2の座に君臨し続けた藤原一族の氏神を祀る神社だからです。
藤原家のサポートだけでもすごいことですが、さらには藤原の血を引く天皇も誕生していますから、天皇家からも厚いサポートを受けてきているのです。
朝廷のツートップから支持を受けている神社に、名宝が集まるのも当然ですね。
今回の展覧会は、春日大社および春日大社に対する信仰の全容を包括的に紹介する、決定版ともいえる展覧会になっているとのことなので、これは見逃すわけにはいきません。
私も勉強しに行ってきました。
私は特に、春日大社の創建に関わる宝物が面白いと思ったのですが、そこに「神仏習合」のことを知ると、より興味深く見ることができると思いますので、そのあたりを触れながら、出陳されていたものを紹介します。
春日大社が鹿をシンボルとして使う理由
奈良公園、春日大社、興福寺、東大寺あたりには、鹿がたくさんいますよね。
このあたりで鹿が保護されている理由は、春日大社の縁起にあります。
春日大社は、神護景雲二年(768年)に、藤原氏の血を引く称徳天皇の勅命で創建されました。
祀られている神様は四柱。
- 第一殿:
武甕槌命 ・・・藤原氏の氏神 - 第二殿:
経津主命 ・・・藤原氏の氏神 - 第三殿:
天児屋根命 ・・・藤原氏の祖神 - 第四殿:
比売神 ・・・天児屋根命の妻
です。
この四神を合わせて「春日明神」と呼びます。
第一、第二殿には国づくりに力を発揮された神、第三殿には神事を司る神、第四殿には第三殿の妻神、となっています。
そして、四つの本殿とは別に、天児屋根命と比売神の御子神、
春日大社は、最も重要とされる第一殿の神様「武甕槌命」をこの地に招くところから始まります。
武甕槌命は、国譲り神話に出てくる最強の武神。
茨城県にある鹿島神宮に鎮座していたのですが、奈良に都ができる頃に、国家の繁栄を願って奈良の地に招かれたのです。
武甕槌命は、鹿島神宮から白鹿に乗って飛来し、春日大社のある御蓋山の頂上に降り立ったといいます。
その時の様子を描いたものが鹿島立神影図です。
※画像:「春日大社のすべて」のリーフレットより)
奈良公園で鹿が大切にされている理由は、この絵にあります。
「鹿島立神影図」と呼ばれているものは、この図一つだけではありません。
他にもあって、今回の展覧会だけでも前後期合わせて4つ出ているのですが、共通するのは由緒にも書かれているように「武甕槌命が白鹿に乗っている」ということ。
このことから春日大社では、鹿は神様の遣いとしているわけです。
春日大社を知るカギは「神仏習合」
※画像:ポストカードより
上の画像は、南市町自治会に伝わっている、鎌倉時代作の「春日宮曼荼羅」。
これを用いて神社の縁起や神様の霊験を説明したり、又はその地に行かなくても礼拝ができるように家に飾ったり、という使い方をしていました。
なので、宮曼荼羅を紐解くと、その神社の信仰のあり方が見えてくることがあるので面白いんですよね^^
春日宮曼荼羅をよく見ると、上の方に5人の仏の姿があります。
神社の社殿の上に、仏教の教主である仏様がいるのは不思議に思えますよね。
それを理解するのに必要なキーワードが
「神仏習合」は、神と仏がごちゃ混ぜになった信仰形態のこと。
春日大社はこの形の信仰が盛んだったので、宮曼荼羅の社殿の上に仏が描かれているわけです。
日本に仏教が取り入れられた経緯
日本人は古来から神を信仰していました。
磐座や榊などを神の依り代とし、神の言葉を伝える巫女が儀式を行っていました。
6世紀になると、朝鮮半島から仏教が伝来します。
伝来当初こそ、どちらを信じるのか?という議論はありましたが、仏教側は元からいた神々を否定することはなく、主として先祖の供養や病気平癒、祈雨など現世利益的なものとして受け入れられました。
なので、仏教を受け入れたからといって、神々を祀ることをないがしろにはしなかったんですね。
このように、日本人は
神と仏の関係を理解するさきがけの説「神身離脱説」
仏教が伝来して200年くらいは、その間は神と仏が混じることはありませんでした。
混じるようになったのは、8世紀の奈良時代。
仏教が広まっていくと、神々と仏の関係をどう理解していくのか?という課題が生じはじめました。
そこで、主に僧侶の側からさまざまに論じられました。
その発端として位置づけられているのが
仏教では、この世のあらゆる存在は、死後も輪廻(生まれ変わり)を繰り返して苦悩し続けるという「輪廻転生」の考え方があります。
苦悩から抜け出す(離脱する)には「真理」を悟ることが必要です。
神身離脱説はこの考え方をベースにしていて、神も輪廻転生の対象である、とする説です。
つまり、
「神々も人々と同じく輪廻の中で苦しむ存在であって、仏法による救いを求めている」
ということ。
なので、神前で祝詞ではなく、仏教の経典を読む「神前読経」が行われるようになったのです。
このように、お寺と神社が密接に関係しているのですが、それがわかるような様子が今回の展覧会でも出陳している春日権現験記絵に描かれています。
※画像:リーフレットより
上は20巻ある春日権現験記絵の一巻に描かれている一部分。
烏帽子を被った神職さんがいますが、その奥には興福寺のお坊さんがいます。
このシーンは、春日明神が本殿中門に参籠していた女性に憑依して、神官と興福寺の僧を呼び集め、託宣を告げるシーンです。
「既に菩薩となっているのに朝廷はその称号を奉っていない」
「菩薩の名は慈悲万行菩薩である」
「公卿の任官は自分が判定する」
といった様々なお告げがあったことを描いたものです。
神職だけでなく、僧侶もまた神に仕えていたことがわかるのですが、さらに春日明神が積極的に仏になりたがっている様子も伺えます。
このシーンはまさに、春日明神が仏法に帰依しているということでしょうね。
神は仏が姿を変えたものとする「本地垂迹説」
平安時代の終わり頃になって、神仏の習合化はさらに進展します。
その頃に神仏が習合する理由を説明するものとして唱えられるようになったのが
この説は、
「"仏"は神の実際の姿(本地)であり、"神"は仏が衆生を救済するために姿を変えた仮の姿(垂迹)である」
というもの。
つまり、神と仏は同体だということです。
仏や菩薩は、あらゆる人々を救いたいと思っています。
しかし仏が人々の前に現れると、人々は光り輝く仏を見て驚くばかりなので、なかなか救うことができないと感じています。
そこで仏たちは神の姿に変身し、民を救おうとしている、というわけです。
もう一度、春日宮曼荼羅の上の方を見ると、5体の仏がいます。
この仏達は、第一殿から第四殿、そして若宮社に祀られている神様の本地仏なのです。
本地仏は、
- 第一殿:不空羂索観音(又は釈迦如来)
- 第二殿:薬師如来
- 第三殿:地蔵菩薩
- 第三殿:十一面観音
- 若宮社:文殊菩薩
と言われています。(諸説あります。)
春日宮曼荼羅では、これらの仏が横一列に並び、人々を見守っているというわけですね^^
これらの仏は、他の宝物にも描かれています。
例えばこちら。
画像:ポストカードより
「
こちらも鹿島立神影図と同じく、武甕槌命が来た時の様子を彫像化したものです。
神鹿は雲に乗って飛来しているのですが、鹿の上に乗っているものが特徴的ですよね。
これは、神を祀るときに依り代(神が憑依するもの)として今でも神社の祭祀で使われている
そこに神鏡が置かれ、その中に5つの円があるのですが、これは5体の本地仏を現しているのです。
ものすごくインパクトのある像ですが、ここからも本地垂迹説の影響をうかがい知ることができますね。
ちなみに、第一殿の本地仏である不空羂索観音は、興福寺の南円堂で祀られています。
興福寺の僧侶は、今でも南円堂で儀式をした後は、春日大社の方に向かって柏手を打つそうですよ^^
春日大社は、奈良国立博物館のすぐ近くにあるのですが、実は博物館のある場所も、元々は春日大社の敷地内だったんですね。
先に紹介した春日宮曼荼羅の下の方には、東西二つの塔が建っています。
実はそのあたりが、現在の博物館のあるあたりです。
その両塔の跡は、今でも残っています。
この両塔は、現在も見ることができる興福寺の五重塔に匹敵する規模だったのだとか。
現在の大きな寺院でも塔を2つ持っているところはなかなかありませんので、最盛期は相当な力を持っていた神社だったのでしょうね。
神仏習合に関してはこちらにもう少し詳しく書きましたので、気になる方は参考にしてみてください。
よく、神社とお寺の区別がつかないという方がおられます。 でも、それはおかしなことではありません。 歴史を紐解けば、区別がつかないのも当然の流れなんですよね^^ そのカギを握るのが「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」です。 …