豊国神社

三十三間堂、京都国立博物館の近くにある豊国神社(とよくにじんじゃ)は、豊臣秀吉を祀る神社です。
鳥居の額束に書かれているように豊国大権現という名前で祀られています。

秀吉は死後、現在の豊国神社の社地から東方にある阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬されました。
そして山麗にお社が建てられたのが豊国神社の始まりです。

しかし、大坂夏の陣後に徳川幕府の意向で廃絶。
社は長い間風雨にさらされるほどだったのですが、明治13年に現在の地に移って再建されました。

秀吉は農民から天下人にまで上り詰めたことから、出世・勝運の神様として崇敬を集めています。

豊臣家ゆかりのものが見られる境内

豊国神社 境内

豊国神社の境内には、豊臣家に関係のあるものがいくつかあります。

まずは豊臣家の家紋、五七桐(ごしちのきり)

豊国神社 手水舎

上に付いている花の数が、5-7-5となっていることから五七桐と呼ばれています。
デザインはいくつかあって、豊臣秀吉が使っていた五七、五三の桐を総称して太閤桐というようです。

そして、桃山文化を代表する建築の一つとして国宝に指定されている唐門。

豊国神社 唐門

西本願寺や大徳寺の唐門とならんで、数少ない国宝の唐門です。

元は伏見城の楼門だったという説があります。
伏見城は、秀吉が隠居後の住まいとして建てたものですので、豊臣家の名残が残っているということですね。

軒自体が巨大な唐破風になっていて、江戸初期の彫刻家、左甚五郎による彫刻が屋根下の欄間や扉に施されています。

さらに、当初は門全体が黒漆が塗られ、彫刻は極彩色、黄金好きの秀吉らしく金箔も使われていたそうです。
今でも豪華絢爛ですが、昔はもっと豪華だったんですね。

豪華絢爛といえば、日光東照宮の陽明門などが有名ですが、そのような豪華な造りはここから始まったとも言われています。

上を見上げると、欄間に「目無しの鶴」と呼ばれる2羽の鶴。

豊国神社 目無しの鶴

今にも飛び出さんばかりの立体的な鶴の彫刻です。

しかし、写真では見えにくいですが、名前の通り目がありません。
その理由は、目を入れるとそれで完成になってしまい、そうなると本当の鶴になって飛んでいってしまうと考えられたからなのだとか。

左甚五郎作の彫刻は、そういういわれのあるものが多いです^^
例えば滋賀県の三井寺にある閼伽井にも左甚五郎作の龍の彫刻がありますが、その眼に五寸釘が打たれています。
それは、夜な夜な琵琶湖に出てきて暴れるのを防ぐためなのだとか。

それくらいリアルなものには魂が宿ると考えられていたのかもしれませんね。

扉の下の方には「鯉の滝登り」の彫刻が施されています。

鯉の滝登り

鯉の滝登りは立身出世の象徴とされています。
なので、この門をくぐると出世できるといわれているんです♪

唐門の前には拝殿があって、普通の神社なら拝殿でお祈りをするのですが、豊国神社では唐門の前までしか行くことができません><

豊国神社 拝殿

ただし、チャンスはあります。
それは正月三ヶ日。

この日は特別に拝殿の前まで行けるんですね^^
正月三ヶ日、チャンスのある方はぜひ参拝してみましょう♪
(もしくは、特別祈願を申し込むことでも入ることが出来るようです)

門の柱には瓢箪(ひょうたん)の絵馬がかけられています。

豊国神社 ひょうたん

瓢箪は秀吉の馬印(合戦の時に敵味方の区別をつけるための印)として使われていたものです。

元々は、織田信長の美濃攻めの時、秀吉は難攻不落な稲葉山城(今の岐阜城)を背後から突いて落とすという功績をあげました。
その時、腰に付けていたひょうたんを高く掲げて合図にしていたのですが、それにちなんで信長から瓢箪の馬印を使うことを許されたのです。

そして後の世で、戦勝の度に瓢箪を増やしていったと話が盛られたことから瓢箪をたくさんつけて「千成瓢箪」とよばれるようになりました。
千成瓢箪の話は有名なのですが、実は実際に掲げた瓢箪は一つだけだったんです^^;

写真はたくさんの瓢箪を連なるようにしていますが、千成瓢箪をイメージさせているんでしょうね。

ひょうたん絵馬には、縁結び開運の2種類があって、縁結び絵馬は、秀吉公にお願いするものと、正室である北政所、おね(ねね)様にお願いするものがあります。

縁結び ひょうたん

秀吉とおねは、政略結婚が当たり前の戦国時代に珍しく恋愛結婚だったんです。
縁結びのご利益、ありそうですね^^

そして豊国神社にはもう1つ、秀吉ゆかりのユニークな絵馬があります。
それがこれ。

豊国神社 わらじ絵馬

わらじの形をした出世絵馬です。
秀吉は信長のわらじを懐で温めたことで出世の道が開けたというエピソードは有名ですね^^
出世に限らず、仕事運を付けたい方もぜひ祈願しておきましょう。

その他、豊国神社には秀吉や豊臣家、神社に関する資料や宝物を展示している宝物館があります。

豊国神社 宝物館

入館には300円必要ですが、ここには重要文化財の豊国祭礼図屏風をはじめ、秀吉が戦場で使った武具や馬具、そしてなんと秀吉の歯などがあります。
秀吉ファン必見ですね。

奈良の大仏よりも大きかった京の大仏

方広寺 大仏殿跡

現在の豊国神社の地は、元の場所(阿弥陀ヶ峰の山麗)から移された場所。
秀吉にはゆかりのある地なんです。
実は、秀吉は奈良の大仏より大きな大仏を京都に建てたことがあるんです。

東大寺にある奈良の大仏は、松永久秀による東大寺焼き討ちで焼けて落ちてしまったので、秀吉はそれに代わる大仏を京都に建てました。
それが京の大仏で、奈良の大仏、鎌倉の大仏と並んで日本三大大仏とされていたようです。

奈良の大仏の大きさは像高(座高で)14.98メートルなのですが、京の大仏は6丈3尺。
メートルに換算すると約19メートルです!
奈良の大仏より4メートルほど大きいですね^^

京の大仏は残念ながら、地震や火災、雷などで破損しては再建を繰り返し、1798年、寛政大地震で焼失してしまいます。
その後は完全な大仏ではなく、肩より上の縮小版が造られたりしたのですが、昭和48年の火災でついにそれも消失してしまいました><
豊国神社はそんな大仏殿の跡地なんです。

お隣には方広寺というお寺が隣接していて、今でこそ小さなお寺ですが、このお寺がまさに大仏を安置するために建てられたお寺なんです。
豊国神社の境内からすぐ行くことができます。

豊国神社の境内も元々は方広寺の寺領で、大仏殿が建っていた場所。
その遺構が豊国神社や方広寺で見られます。

上の写真は、方広寺にある鐘楼の中。
中には何かが置かれていますが、これこそが大仏殿の遺構です。

豊国神社 大仏殿跡

鉄製の金輪は、大仏殿の柱に使われていたもの。
詳しい大きさはわかりませんが、直径1メートルくらいはありました。
風鐸も大きいですね^^

こういう柱が92本あったそうで、南北約90メートル、東西約55メートル、高さ約50.5メートル。
奈良の大仏殿をしのぐ大きさですね。

そして京都国立博物館から豊国神社の入口あたりで見られる大きな石垣も大仏殿の遺構です。

豊国神社 豊公大石垣

人よりも大きな石垣で、豊公大石垣と呼ばれています。
これは秀吉が大仏造営するにあたり、二十一カ国に通達して巨石を運ばせたものです。
その際、諸大名が自領の自慢の石を持ち寄って、大きさを競い合ったのだとか。

写真では石垣の大きさがわかりにくいのですが、どれも結構な大きさです。
そういう石を実際に持ってこさせるあたりが、秀吉のすごさの現われですね。

ちなみに、最初に作った大仏は、開眼(魂を入れること)前に大地震で倒壊しました。
この時秀吉は、

「おのれの身さえ守れないのか!」

と激怒、大仏の眉間に矢を放ったそうです^^;

大阪冬・夏の陣の引き金になった鐘

方広寺 

大仏殿の遺構が残っている方広寺の鐘楼ですが、そこで吊るされている梵鐘は「国家安康の鐘」と呼ばれています。
高さ4.2メートル、外形2.8メートル、厚さ0.27メートル、重さ82.7トンという大きな鐘です。

とても立派な鐘なのですが、実はこの鐘をめぐって方広寺鐘銘事件という事件が起こっています。
この事件は、豊臣家が滅亡した大阪冬の陣、夏の陣に発展してしまうんです!

どういう事件か?

秀吉の息子である豊臣秀頼が、地震で崩壊した大仏殿の再建に着手しました。
徳川家と豊臣家の共同の復旧事業だったのですが、無事に修営が終わり、梵鐘に銘を入れた段階で、今まで何も言わなかった徳川家康が急に、その文言に難癖をつけました。

その文言は今でも残っています。
下の写真で、ご丁寧に白枠で囲まれているのがその文言です。

国家安康 君臣豊楽

「国家安康」「君臣豊楽」と書かれています。
国家が安泰して、君主も臣下も豊かになることを願っているような文言ですね。

でも家康は、この文字の並びに無茶な意味付けをして難癖をつけたのです。

「家康」を分断して「国」を「安」んじ
「豊臣」を「君」(君主)とすれば「楽」しむ

つまり、「家康」の2文字を話すことが銅切り(徳川家の滅亡)を表し、それを願いながら豊臣家の繁栄を願っている、としたわけです。

豊臣家を滅ぼしたかった家康は、どうにかそのきっかけが欲しかったんですね^^;

鐘の中には淀君の幽霊がにじみ出たと言われていますが、私にはわかりませんでした。

国家安康の鐘

豊国神社の御朱印

豊国神社の御朱印です。

豊国神社 御朱印

印は豊臣家の家紋である桐紋と、秀吉の馬印にも使われている瓢箪。
右に「壽比南山」、左に「福如東海」、中央には「関白」と書かれています。

これは、秀吉が使っていたとされる鋳銅印の印影の文字です。

これらは縁起の良い吉語で、「南山」は西安にある霊験あらたかな山「終南山」のことで、「東海」は仙人の住む霊山「蓬莱山」を指しています。
そして「壽」は寿命の「寿」、「福」はそのままの意味の「福」です。
この二つを合わせて「寿命も福も仙人の如く長く多くあれ」という意味になります。

ちなみに豊国神社の御朱印は、正月三ヶ日と、秀吉の月命日となる毎月18日に頂くと、印の桐紋が朱色ではなく、ゴールドになるようです。
さらに、御朱印を書いてくれる人(1人しかいないらしい?)によっては、「関白」のところが「豊国大明神」と書いてくれる場合があるようです。

「豊国大明神」は、当初豊臣秀吉が希望していた神名です。
でもいろいろあって、豊国大権現になっています。

この御朱印が頂けたらなかなかレアですね^^


豊国神社から京都国立博物館を回り込み、智積院と妙法院の間の道を真っすぐ行くと、豊国廟に行くことができます。
485段の階段を登らないと行けませんが、上には秀吉の墓となっている五輪塔があります。

興味のある方はセットで行ってみて下さい^^

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