三十三間堂

三十三間堂は、お堂の中に1001体の千手観音がずらりと並ぶ圧巻の光景で有名なお寺です。

そんな三十三間堂ですが、2018年に新たに生まれ変わりました。
中尊を挟んで左右500体ずつの千手観音の45年にわたる修理がついに終わったのです。

これを期に、今まで重要文化財だった1000体の千手観音が、すべて国宝になりました。

さらに、風神雷神像や二十八部衆の一部も配置換えが行われ、創建当時と同じ配置になりました。

そして堂内の照明には、文化財に優しいLEDライトが導入されました。
特に二十八部衆は、下からも光を当てることで、以前より迫力ある姿で拝観することができます。

なので、一度訪れたことがある方も、改めて訪れると新しい発見があるかもしれません。

というわけで、今回は三十三間堂について紹介します。

三十三間堂の名前の由来

「三十三間堂」という名前は、実は通称。
お寺の正式名は「蓮華王院」といいます。
蓮華王院の本堂が「三十三間堂」と呼ばれているのです。

「蓮華王」というのは、千手観音のこと。
つまり、「蓮華王院」は千手観音のお寺、という意味なのです。

三十三間堂と呼ばれる理由は、本堂内陣にある柱の間の数が33あるからです。
(外側から見える柱間は35)

三十三間堂は、それ自体が国宝で、このように横長になっています。

三十三間堂 本堂

南北に延びるその長さはおよそ120m。
東西が16.4メートルなので、ものすごく横長です。
世界一長い木造建築でもあるのです。

33という数にも意味があります。

これは、観音様が人々を救う時、相手の性格や状況に応じてお姿を変えるそうです。
そのバリエーションが33あると、お経に書かれているのです。

蓮華王院 三十三間堂の歴史

三十三間堂が建てられたのは、平安時代後期の長寛2年(1165年)。
後白河上皇が平清盛に命じ、平家の資財を投じ、蓮華王院の本堂として建立されました。

三十三間堂は、後白河上皇の院御所の一画に建てられた

建立された現在の場所は、後白河上皇の院御所(いんのごしょ)である「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」の一画。
この時代は、上皇が天皇に代わって政治を行う「院政」が行われた時代で、その際、天皇の住まう御所とは別に、上皇専用の「院御所」を造営するのが通例でした。

法住寺殿は、政治的な施設「北殿(きたどの)」、宗教的堂塔が集中する「南殿(みなみどの)」に分かれていて、その敷地はこのようになっていました。

法住寺殿略図
左側が北です。

南は八条坊門小路、北は六条大路となっていますから、南北は、現在の東海道線沿いの大谷高校辺りから、豊国神社の北側よりさらに一区画北側の通り辺りまででしょうか?
東西は現在の三十三間堂から東大路通りまでとなっています。

かなりの広さですね。

そして蓮華王院は、三十三間堂だけでなく、五重塔なども建っていたんです。
上皇は永暦2年(1161年)に南殿に移り、以後20年住まいとしました。

しかし、法住寺殿は寿永2年(1183年)に、木曽義仲の夜襲や、建長元年(1249年)の建長の大火などで焼失してしまいました。

鎌倉時代の文永3年(1266年)に本堂のみが再建され、現在の三十三間堂はその時に建てられたものとなっています。

現在の三十三間堂は、東山七条にある妙法院が管理しています。

三十三間堂の仏像について

三十三間堂の仏像は、3.4メートルもの大きな中尊(千手観音坐像)を中心に、左右500体ずつ、そして裏に1体の千体千手観音立像、風神雷神、二十八部衆像などがあります。

数あるお寺の中でも圧倒的な数ですね。
なぜそんなに仏像が配置されているのでしょうか?

千手観音について

千手観音といっても、実際の仏像には、合掌している手が2本と、それ以外の手が40本。
合わせて42本しかありません。

実は、千というのは、実際の数ではなく「無限」の意味なのです。

千手観音は、合掌の手以外の40本の手が、それぞれ天上界~地獄界まで25の世界を救うと言われています。
つまり、

40×25=1000

となり、無数の世界に救いの手を差し伸べているのです。
これがまさに無限の観音力というわけですね^^

千手観音が1000体も配置されている理由

千手観音は1体でもでもそれだけの救ってくださるのですが、三十三間堂では1001体も配置されています。
なぜそんなに配置されているのか?

それは、その当時に流行した思想「末法思想」が関係しています。

末法思想によると、平安後期は仏教が廃れ、災いが蔓延する時代「末法の世」に入ると信じられていました。

なのでこの時代は、仏の力を頼って浄土に往生したいという願いが強くあった時代です。
寺院や仏像を作ることは徳を積むことに繋がると考えられていました。

そのため、大量の寺院、大量の仏像を作ることが流行ったのです。

特に後白河上皇は信心深く、熊野詣を行った回数は歴代最多という記録の持ち主です。

三十三間堂は、後白河法皇一人のために造られた祈りの空間。
無限の救いの手を形にしたかったのでしょうね。

三十三間堂の仏像の見どころ

三十三間堂の仏像は、何も考えずに見ても圧巻なのですが、じっくり見てみるのもおすすめです。

まずは千体千手観音の中から、自分に似た顔の仏像を探してみましょう。
パッと見渡すと、どのお顔も同じに見える千手観音ですが、じっくり見ると表情が違うんです。

創建当初の平安時代の千手観音も124体残っていますし、鎌倉時代のものは色々な仏師が作っているので、表情が違うのは当たり前。

自分に似た顔を見つけることができると幸せになると言われています^^

そして、三十三間堂の空間の世界観も想像してみると面白いです。
そのあたりは、こちらにも書きました。

二十八部衆や風神雷神は、その表情の豊かさ、鍛え上げられた筋肉など、猛々しい姿が見どころなのですが、ぜひ下から見てみましょう。
特に2018年以降は、LEDライトを下から当てていますので、より迫力を増しています。

風神雷神は、その配置にも注目。
2018年以前までは、向かって左が風神、右に雷神が配されていました。
つまり、拝観順序としては、最初に雷神から出会って、最後に風神に会うことになっていたんですね。

それが現在は、最初に風神(向かって右)、最後に雷神(向かって左)になっています。

これは、俵屋宗達の風神雷神図屏風を見ると、納得すると思います。

建仁寺 風神雷神図屏風

俵屋宗達は、三十三間堂の風神雷神を見て風神雷神図屏風を描いたと言います。

でも、2018年以前まで、三十三間堂での配置は逆だったんですね。

つまり、元々は右に風神、左に雷神だった可能性があるということ。
なので現在はその配置になったというわけです。

三十三間堂で行われる弓の伝統競技「通し矢」

三十三間堂では、例年成人の日の近くの日曜日に、大的全国大会が開催され、無料公開されます。

「成人の部」と「称号者の部」があって、全国から毎年約二千人が参加するのですが、成人の部では主に弓道をたしなむ新成人が晴れ着姿で参加するので、京都の冬の風物詩の一つになっています。

大的大会は、三十三間堂の端から端まで120mの距離を使って行われていた「通し矢」を起源としたものです。

通し矢は、本堂の西縁の南端から北端へ、矢を射通す競技。
軒天井がありますから、それにも注意しながら120mを射通すにはかなりの修練が必要です。
通し矢は江戸時代には競技化が進み、種目がいくつかあり、各藩の弓術家が武士がその腕を競ったそうです。

中でも有名な種目は、一昼夜24時間矢を射続け、射通した矢数を競う「大矢数(おおやかず)」。
身命を賭けた壮絶な競技だったようです。

現在行われている大的大会は昭和26年から行われているもので、当時の通し矢とは似て非なるものではありますが、ルーツは通し矢からきています。

大的大会では、当時の120mとは違い、半分の60mの先にある1メートルの的を射通します。
しかも当時のような連射は行いません^^
1人2本までとなっています。

でも、それでも当てるのは難しいのです。

弓道では、普段は半分の28m先の36cmの的を射る「近的」で練習するのが一般的なのだそうです。
60mの遠的の練習場所は、全国でも数か所しかないので、練習するにはどこか広い場所を借りて仮設の練習場を作るしかありません。

大的大会は特設会場を設けて行われますので、かつての通し矢のように軒天井もありませんが、それでも練習をしておかないと全くあたらないようです。

武士は弓道の腕前も生業にしていたとはいえ、驚きですね^^

三十三間堂の御朱印

三十三間堂の御朱印です。

蓮華王院 三十三間堂 納経印

洛陽三十三所観音霊場の十七番札所でもあります。
オリジナルの朱印帖もありました。

蓮華王院 三十三間堂 御朱印

1冊1,000円でした^^