伊雑宮

伊雑宮(いざわのみや)は、地元の人に「磯部(いそべ)さん」、「いぞうぐう」「磯部の大神宮」と親しまれている神社です。

古くから伊勢の両正宮に次いで格式の高い「別宮」として扱われています。

伊勢神宮の別宮は、内宮10ヵ所、外宮4ヵ所、全部で14ヵ所あるのですが、伊雑宮は内宮所属の別宮になります。

ほとんどの別宮は内宮や外宮の近くにあるのですが、伊雑宮は伊勢神宮から遠く離れた志摩にあるため、「遙宮(とおのみや)」とも呼ばれています。

少し遠いだけあって、参拝客はほぼいないのですが、神聖な空気感はまさに伊勢神宮の神域そのものです。

江戸時代には、両宮参拝の後に伊雑宮を参拝するのも珍しくなかったそうです。
内宮、外宮に何度も訪れている人は、たまには足を延ばしてみるのも良いかもしれません。

伊雑宮ななぜこの場所にあるの?

伊雑宮 本殿

他の別宮が伊勢神宮の近くにある中、伊雑宮は遠い志摩の磯部の地にあるのも不思議ですよね。

その理由には、倭姫命が関わってきます。

伊雑宮の由緒によると、天照大御神が伊勢神宮に鎮座した後、倭姫ノミコトは天照大御神に捧げる食べ物を供給する御贄地(みにえどころ)を探すため、古来から海の幸に恵まれた土地であった志摩の国を訪れていました。
その時に伊佐波登美命(いざわとみのみこと)に迎えられ、豊かな稲を献上されたので、この地を御贄地と定めたとされています。

磯部地区は海に近く、昔から海洋部族がいたので、伊佐波登美命はおそらくこのあたりの首長だったのでしょう。
また、この辺りが志摩国のなかで唯一、水田耕作が可能だった土地だったので、この地に決めたのだと思われます。

伊雑宮の本殿には、天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)が祀られています。

倭姫命については、別宮の倭姫宮のところに書きましたので、詳しくはそちらをご覧ください。

伊雑宮では、日本三大御田植祭の一つ、御田植式が行われる

伊雑宮 田んぼ

伊雑宮の隣には、伊勢神宮に捧げるための稲穂を育てる御神田(おみた)があります。
これこそがまさに、倭姫命が定めた御贄地ですね。

そして、毎年6月24日の月次祭の時に行われる御田植式は、「磯部の御神田」ともいわれる国の重要無形民俗文化財に登録されています。

竹取神事では、田んぼの中で裸の男たちが泥だらけになりながら、大きな団扇のついた忌竹(いみだけ)を奪い合います。
この竹をとることで、大漁に恵まれるのだとか。

これだけ激しい神事をやった後は、次は静かな御田植え神事に移り変わります。
笛や太鼓のお囃子が奏でられる中で、古式ゆかしい装束を身にまとった田道人(たちど)と呼ばれる男性と、早乙女(さおとめ)と呼ばれる女性が一列にならび、一つ一つ手で植えていきます。

伊雑宮の御田植祭は、千葉の香取神宮、大阪の住吉大社と並んで、日本三大田植祭の一つに数えられます。

この祭りは、今まで雨でも嵐でも開催してきたのだとか。
第二次大戦中は、空襲が激しいときにも行った記録があるのだそうです。
これはもう、驚きでしかありませんね^^

御田植祭にまつわる志摩地方の伝承「七本鮫」

御田植祭にまつわる伝承として「七本鮫」というものが伝わっています。
これは、御田植祭の日になると、7匹の鮫が的矢湾から伊雑宮の前を流れる磯部川を伝って参詣にくるという話です。

この鮫が竜宮の使いであるとも言われているのですが、残念なことに漁師の一人がそのうちの1匹を銛で刺し殺してしまいました。
漁師は以前、子供が鮫に襲われたことへの復讐のつもりだったのです。

しかし後になって別の鮫だったことがわかり、謝罪の供養をしたのですが、その甲斐もなく、その漁師の家は祟られて、一家は途絶えてしまったのだといいます。

なので、七本鮫は今では六匹で参詣に来るのだそうです。

また、この日はその日は海で泳いではいけないとされていて、海女たちは海に出ずに伊雑宮にお参りに来るのだそうです。

伊雑宮に伝わる、歴史ミステリー

江戸時代の1679年(延宝7年)に、伊雑宮が関わった、日本を揺るがす大きな事件が起こりました。
それが、先代旧事本紀大成経事件です。

この事件でなんと、伊勢神宮よりも伊雑宮の方が格上であるという主張が出てきたんですね。
古来、天照大御神を祀っていた場所は、今の伊勢神宮ではなく、この伊雑宮であったとのこと。

これは日本の根幹を揺るがす事件ですね。

きっかけは、伊雑宮の神職だった「永野采女」が、蔵で「先代旧事本紀大成経」を見つけたことにはじまります。

先代旧事本紀大成経は、聖徳太子によって編纂されたと伝えられる書物ですが、それによると、伊勢神宮は、伊雑宮に日神、内宮に星神、外宮に月神を祀っているとのこと。
その中でも日神こそが天照大御神なので、伊雑宮の方が伊勢神宮より格上であると主張していたのです。

主張したのは、伊雑宮の神職や、伊雑宮の御師たち。
それに対して、伊勢神宮側は名誉棄損だと幕府に訴え、先代旧事本紀大成経は偽書であると認定、禁書になったのです。
訴えた神職や御師たちは流罪となりました。

しかし、この話が世に与えたインパクトは大きかったのか、後にでてくる垂加神道にも影響を与えるわけです。

神職たちがそう主張したのは、先代旧事本紀大成経に書かれていたから、というだけではありません。
かつて倭姫命が各地を巡幸していた時、磯宮で祀ったということが「日本書紀」や「倭姫命世紀」という書物に書かれていて、それが伊雑宮だということも主張していたのです。

はたしてその話が本当かどうかはわかりませんが、江戸時代には「伊勢三宮」といって、内宮・外宮・伊雑宮を参拝するのが一般的になっていました。
それだけ信じている人が多かったのかもしれませんね。

もしこの歴史が解明されて、偽書ではなかったとしたら、今でも伊勢神宮の伝統をひっくり返すほどのすごい出来事になりますね。