東大寺で最も古い建物の法華堂。
その法華堂の堂内は天平彫刻の宝庫。
天平時代を代表する14体もの仏像が安置されています。
それだけでもすごいのですが、その中の一つ、
年に一回の御開帳なのでなかなかハードルが高いですが、今回何とか見ることができました。
今回は法華堂の歴史と、法華堂内に安置されている仏像たち、そして年に一回御開帳の執金剛神についてご紹介します。
法華堂は、東大寺の前身寺院の中心的な堂舎だった?
法華堂はもともと東大寺の前身寺院「
金鐘寺は、聖武天皇が若くして亡くした皇太子の菩提を弔うために建てたお寺です。
法華堂は、その金鐘寺の金堂(お寺の中での中心的お堂)であったという説があるんですね。
つまり、東大寺創建よりも前から存在していたということです。
金鐘寺のすぐ近くに東大寺が創建され、その時に東大寺の一部になったのです。
法華堂の建物の一部は、奈良時代から残る貴重な遺構として、国宝にも指定されています。
東大寺は今までに2度焼け落ちていますので、なかなか貴重なんですよね。
こちらが法華堂。
一見すると一棟の建物に見えますが、実は内部は正堂と礼堂で分かれています。
左側が正堂、右側が礼堂です。
ちょっとわかりにくいですが、よく見ると屋根が不自然ですよね。
正堂は寄棟造り、礼堂は入母屋造り。
礼堂は、後でつけ足されたものなんです。
平面図で見ると、内部はそのまま繋がっていて、一つの建物になっていることがわかります。
※画像:毎日新聞社 - 「魅惑の仏像12 不空羂索観音」より
では、なぜ造りが違うものが後付けされたのでしょうか?
実は当初、本堂と礼堂は隣り合う別々の建物でした。
それが、平重衡による南都焼討ちによって東大寺はほぼ全焼。
その時に礼堂は焼け落ちてしまい、本堂だけが残ったのです。
その後、大仏殿を再建した重源上人によってすぐに再建が始まるのですが、その際に現在のような、礼堂と本堂が合体した建物になりました。
重源の時代、資材が少ない中で東大寺の再建が急がれたので、
大仏様は工期を短くできるメリットがあったんですね。
(※大仏様について詳しくは開山堂の記事に書いています。)
なので、礼堂の内部には大仏様が採用されることになったのですが、外観は天平の雰囲気を残したい、ということで、和様を採り入れたそうです。
細かい部分をみると、重源が礼堂と正堂との調和に苦心した様子がうかがえます。
このようなことから、正堂は奈良時代、礼堂は鎌倉時代の作で、それらが合体しているという、類を見ない建物となっています。
天平彫刻の宝庫!14体もの仏像が並ぶ法華堂内陣
画像:リーフレットより
法華堂の内陣には、内陣いっぱいに仏が乗る須弥壇が広がっていて、仏像が曼荼羅のように安置されてていました。
お寺の須弥壇というよりも、まるで舞台を見ているような感じです。
このような配置になっています。
※画像:毎日新聞社 - 「魅惑の仏像12 不空羂索観音」より
中央の不空羂索観音と、その周りを囲む天部の神たち。
四隅に配置された四天王、前方に金剛力士、背後の執金剛神は観音様のボディーガードです。
梵天は天地創造を神格化した神ですが、梵天の対として、戦いの神である帝釈天も置かれる場合は、仏教の守護神としての役割を担います。
つまりこの2神も観音様のボディーガード。
守りすぎですね^^
それにしても、立っている仏像がすべて大きい!
3~4m級のものばかりです。
見た瞬間、明らかに中国の影響を受けているな、とわかるような仏像たち。
いずれも天平時代を代表する彫刻です。
仏像は興福寺の阿修羅像と同じく「脱活乾漆造」という技法で造られています。
「脱活乾漆造」は、この時代を代表する手法で、漆を大量に使いますし、なかなか贅沢なんです。
あまりに贅沢なために、後の時代には作られなくなったんですね。
そんな贅沢な仏像が、法華堂だけで9体もいらっしゃるのです。
もちろんそれらはすべて国宝。
これらの諸像は、後で紹介する執金剛神とともに法華堂本来の仏像です。
つまり金鐘寺の仏像ですね。
金鐘寺はよほど朝廷から重要視されていたのでしょう。
そしてその中でもやっぱり見事なのはご本尊、
淡交社「古寺巡礼 奈良3 東大寺」より
羂索は、「けんさく」、「けんじゃく」と呼ばれたりするのですが、それは「投網」のことで、この像の場合は下の左手に持っています。
この観音様の法力ですが、
私たち衆生は、生死の大海で苦しんでいるのですが、その大海に妙法蓮華という花の餌をまき、それにすがろうと集まってくる衆生を、この投網で一挙に救い上げ、悟りの世界、極楽の世界へ導いてあげよう
というものです。
「投網」は、魚を獲る時の網ですが、この観音の場合は苦しむ衆生を救うために「慈悲」という網で作られたもの。
その編み目は細かく、全世界を覆うほどのものになるので、誰一人漏らすことがないのだそうです。
つまり、投網の空振りがないということから、名前に「不空」がついています。
ありがたい仏さまですね^^
そのお姿は、顔に目が三つ、腕が八本という、いわゆる
いわゆる密教系の像です。
この仏さまは天平時代の作なのですが、体系立てられた密教を唐で学び日本に伝えたのは、平安初期の僧侶、弘法大師 空海。
その空海よりも前から密教の仏像が存在していることになります。
実は空海以前にもなんとなく密教は日本に入ってきてはいました。
でも、まだまだ不完全なものだったので、その頃の密教は「
その頃でも、仏像に関してはこれだけ立派なものが伝わっていたわけです。
観音様の宝冠にも注目。
淡交社「古寺巡礼 奈良3 東大寺」より
この写真、全てがご本尊の宝冠です。
かなり技巧的で、たくさんの宝石類が散りばめられています。
金具はすべて銀製鍍金で、そこに翡翠、琥珀、水晶、真珠、瑠璃などの宝玉で装飾しています。
まさに絢爛豪華ですね!
この時代に、像をバランス良くととのえ、このような細かい装飾までできたのかと、天平彫刻の技術力の高さに驚かされます。
平将門を討伐した伝説の仏像「執金剛神立像」
いよいよ今回のメインの仏像、執金剛神立像へ。
執金剛神立像は、東大寺の創始者である良弁の念持仏(いつも祈りの対象として本尊にしている仏)であったとされています。
だから良弁が亡くなった日である12月16日「良弁忌」の時に御開帳されるんですね。
ここでもう一度、仏像の配置図を見てみましょう。
執金剛神は、ご本尊の背後。
他の仏像と同じように内陣に配置されているように見えます。
でも実際は、執金剛神だけちょっと変わった配置になっているんですね。
内陣の仏像たちは南向きに立っているのですが、執金剛神だけは不空羂索観音を背にして、北向きに立っているのです。
厨子も北に向いて開きますので、拝観するには北面へ回る必要があります。
北面に回ると、執金剛神は結構高い位置に祀られていました。
そのままだとかなり見上げるように拝観しなければなりません。
通路からそのまま見るには近すぎるのです。
通路北側には3段ほどの階段があったので、そこに上って拝観する人であふれていました。
執金剛神が北面するのには理由があります。
なぜなら執金剛神は「法華経」などが説く仏教の守護神で、北方を守護する役目があるとされているからです。
背後からくる敵を威嚇し、退散させる役割を担っているわけですね。
なので気迫に満ちた表情をしているのです。
怒号の表情で筋肉の動きまで表現されていて威圧感がありました。
金剛杵を振りかざす右手に対して、左手には血管が浮き出るほど力強く握りしめていたのですが、その表現がものすごく細かい!
まさに憤怒の一瞬を切り取ったような躍動感あふれる仏像です。
とても塑像とは思えない出来です。
これが1300年も残っているのは奇跡としか言いようがありませんね^^
彩色もよく残っていますが、これは長らく秘仏とされていたためです。
室町時代には「御代に一代の御開帳」と崇敬されていたそうなんです。
それにしても、この尊像がもし敵だったとしたら・・・
想像するだけで、怖いですよね^^;
でもそんな執金剛神を敵に回した人物が、歴史上にはいました。
それが平将門です。
平安時代に密教が広まった時、怨敵調伏の祈願には執金剛神のような憤怒像が使われていました。
平将門の乱にはこの執金剛神立像が使われたんですね。
平将門は、自らを新王と称して平安京の朝廷に対抗します。
将門軍はいたるところで朝廷兵を打ち破って、宮廷にいる貴族たちを恐れさせていました。
そこで朝廷は南都に執金剛神像への祈願を要請します。
扶桑略記や七大寺巡礼私記によると、執金剛神はその際、
執金剛神像を祀っている厨子の左右の柱には鉄製の灯籠がかけられていて、そこには蜂が一匹ずつ彫られています。
それはこの伝説に基づくものです。
このことから、執金剛神像は国家鎮護の像として信仰されるようになったそうです。
その髻が折れている部分を確認したかったのですが、像があまりに高い位置にあるため、残念ながらよく見えませんでした。
ちなみに、お寺の門の左右にによく立っている金剛力士像(仁王像)は、執金剛神を二体に分けたものです。
うわさでは、執金剛神はすごい速さで動いて、まるで二体いるように見えることからそのようになったとも言われているんですよ^^
詳しくはこちら⇒金剛力士の特徴
執金剛神の御朱印
執金剛神の御開帳日のみ頂ける限定御朱印です。
御朱印は、拝観入り口に専用の受付場所が設けられていて、そこで頂きました。
入堂する前に預けて、帰りに返してもらうシステムになっています。