東大寺で最も古い建物の法華堂。
法華会(ほっけえ)という行事がここで行われるので「法華堂」と呼ばれているのですが、それが三月に行われるので、三月堂とも呼ばれるようになりました。

その法華堂の堂内は天平彫刻の宝庫で、天平時代を代表する14体もの仏像が安置されています。

そして今回の一番の目的は、その中の一つ、執金剛神(しゅこんごうしん)立像の御開帳です。

年一回、12月16日のみ御開帳される執金剛神を見に行きました^^

法華堂は、東大寺の前身寺院の中心的な堂舎だった?

東大寺 法華堂

法華堂はもともと東大寺の前身寺院「金鐘寺(きんしょうじ)」のお堂の一つでした。
金鐘寺は、聖武天皇が若くして亡くした皇太子の菩提を弔うために建てたお寺です。

法華堂は、その金鐘寺の金堂であったという説もありますが、そこで不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)を安置していたことから、「羂索堂」とも呼ばれていました。

この建物、一見すると一棟の建物に見えますが、実は内部は正堂と礼堂で分かれています。
平面図で見ると、こうなっています。

法華堂 平面図
※画像:毎日新聞社 – 「魅惑の仏像12 不空羂索観音」より

横から見たらそれがわかるのですが、この日は御開帳日で開山堂の行列が法華堂まで伸びていたので、撮れませんでした^^;
(法華堂は行列にならずに入れます。)

代わりに拝観チケットに載っている法華堂の写真が横から見た図になっているので、そちらを載せます。

法華堂 横面

左側が正堂、右側が礼堂なのですが、屋根が不自然ですよね。
正堂は寄棟造り、礼堂は入母屋造りなんです^^

礼堂が後につけたされたのがわかりますね。

でも当初は本堂と礼堂は別の建物でした。

それを、平重衡による南都焼討ち後に大仏殿を再建した重源上人が、礼堂を再建するときに二堂の間に廊下のような「相の間」を造り、二堂を合体させました。
なので、正堂が奈良時代、礼堂が鎌倉時代の作となります。

重源の時代、資材が少ない中でも再建が急がれたので、大仏様(だいぶつよう)という手法が編み出されました。
(※詳しくは開山堂の記事に書いています。)

なので、礼堂の内部には大仏様が採り入れられているのですが、外観は天平の雰囲気を残すため、和様を採り入れたそうです。

細かい部分をみると、重源が礼堂と正堂との調和に苦心した様子がうかがえますね^^

天平彫刻の宝庫!14体もの仏像が並ぶ内陣

法華堂 内陣
画像:リーフレットより

法華堂の内陣には、内陣いっぱいに須弥壇が広がっていて、壇上に仏像が曼荼羅のように安置されてていました。
お寺の須弥壇というよりも、まるで舞台を見ているような感じです。

このような配置になっています。
法華堂 仏像配置図
※画像:毎日新聞社 – 「魅惑の仏像12 不空羂索観音」より

中央の不空羂索観音と、その周りを囲む天部の神たち。
四天王や金剛力士、執金剛神はすべて観音様のボディーガードです。

梵天は天地創造を神格化した神ですが、梵天の対として戦いの神、帝釈天が置かれる場合は、仏教の守護神としての役割を担います。
つまりこちらも観音様のボディーガード。

守りすぎですね^^

それにしても、立っている仏像がすべて大きい!
3~4m級のものばかりです。

見た瞬間、明らかに中国の影響を受けているな、とわかるような仏像たち。
いずれも天平時代を代表する彫刻です。

興福寺の阿修羅像と同じく「脱活乾漆造」という技法で造られています。
「脱活乾漆造」は、この時代を代表する手法で、漆を大量に使いますし、なかなか贅沢なんです。
あまりに贅沢なために、後の時代には作られなくなったんですね。

そんな贅沢な仏像が、法華堂だけで9体もいらっしゃるのです。
もちろんそれらはすべて国宝。

これらの諸像は、後で紹介する執金剛神とともに法華堂本来の仏像です。
つまり金鐘寺の仏像ですね。

金鐘寺はよほど朝廷から重要視されていたのでしょう。

そしてその中でもやっぱり見事なのはご本尊、不空羂索観音ですね。

法華堂 不空羂索観音
淡交社「古寺巡礼 奈良3 東大寺」より

羂索は、「けんさく」、「けんじゃく」と呼ばれたりするのですが、それは「投網」のことで、この像の場合は下の左手に持っています。

この観音様の法力ですが、

私たち衆生は、生死の大海で苦しんでいるのですが、その大海に妙法蓮華という花の餌をまき、それにすがろうと集まってくる衆生を、この投網で一挙に救い上げ、悟りの世界、極楽の世界へ導いてあげよう

というものです。

「投網」は、魚を獲る時の網ですが、この観音の場合は苦しむ衆生を救うために「慈悲」という網で作られたもの。
その編み目は細かく、全世界を覆うほどのものになるので、誰一人漏らすことがないのだそうです。

つまり、投網の空振りがないということから、名前に「不空」がついています。

ありがたい仏さまですね^^

よく見ると顔に目が三つ、腕が八本という、いわゆる三目八臂(さんもくはっぴ)の像になっています。
いわゆる密教系の像です。

この仏さまは天平時代の作なのですが、体系立てられた密教を日本に伝えたのは、空海です。
それは平安時代初期で、それ以前に伝わっている密教はまだまだ不完全。
雑密(ぞうみつ)」と呼ばれていました。

その頃でも仏像はこれだけ立派なものが伝わっていたわけです。

観音様の宝冠にも注目。

法華堂 不空羂索観音 宝冠
淡交社「古寺巡礼 奈良3 東大寺」より

この写真、全てがご本尊の宝冠です。

かなり技巧的で、たくさんの宝石類が散りばめられています。
金具はすべて銀製鍍金で、そこに翡翠、琥珀、水晶、真珠、瑠璃などの宝玉で装飾しています。

まさに絢爛豪華ですね!

この時代に、像をバランス良くととのえ、このような細かい装飾までできたのかと、天平彫刻の技術力の高さに驚かされます。

平将門を討伐した伝説の仏像 執金剛神立像

執金剛神

いよいよ今回のメインの仏像、執金剛神立像へ。

執金剛神立像は、東大寺の開山となっている良弁の念持仏(いつも祈りの対象として本尊にしている仏)であったとされています。
だから良弁が亡くなった日である12月16日の良弁忌の時に御開帳されるんですね。

他の仏像と一緒に内陣に配置されているのですが、その配置の仕方がちょっと変わっています。

内陣には、不空羂索観音を中心に仏像たちは南向きに立っているのですが、執金剛神だけは不空羂索観音を背にして、北向きに立っているんですね。
厨子も北に向いて開きますので、拝観するには北面へ回る必要があります。

北面に回ると、執金剛神は結構高い位置に祀られていて、そのままだとかなり見上げるように拝観しなければなりません。
通路からそのまま見るには近すぎるのです。

通路北側には3段ほどの階段があったので、そこに上って拝観する人であふれていました。

なぜそんなに高い位置に祀られているのかはわかりませんが、北面するのには理由があります。

なぜなら執金剛神は「法華経」などが説く仏教の守護神で、北方を守護する役目があるからです。
背後からくる敵を威嚇し、退散させる役割を担っているわけですね。

なので気迫に満ちた表情をしているのです。

怒号の表情で筋肉の動きまで表現されていて威圧感がありました。
金剛杵を振りかざす右手に対して、左手には血管が浮き出るほど力強く握りしめていたのですが、その表現がものすごく細かい!

まさに憤怒の一瞬を切り取ったような躍動感あふれる仏像です。
とても塑像とは思えない出来です。

これが1300年も残っているのは奇跡としか言いようがありませんね^^

彩色もよく残っていますが、これは長らく秘仏とされていたためです。
室町時代には「御代に一代の御開帳」と崇敬されていたそうなんです。

それにしても、この尊像がもし敵だったとしたら・・・

想像するだけで、怖いですよね^^;
でもそれを敵に回した人物が歴史上にはいるんです。

それが平将門です。

平安時代に密教が広まった時、怨敵調伏の祈願にこのような憤怒像が使われました。
平将門の乱にはこの像が使われたんですね。

平将門は、自らを新王と称して平安京の朝廷に対抗します。
将門軍はいたるところで朝廷兵を打ち破って、宮廷にいる貴族たちを恐れさせていました。

そこで朝廷は南都に執金剛神像への祈願を要請します。

扶桑略記や七大寺巡礼私記によると、執金剛神はその際、(もとどり)(髪を束ねた部分)が吹き折れて数万の大蜂となって東方に飛び、将門を刺殺したとなっています。

執金剛神像を祀っている厨子の左右の柱には鉄製の灯籠がかけられていて、そこには蜂が一匹ずつ彫られています。
それはこの伝説に基づくものです。

このことから、執金剛神像は国家鎮護の像として信仰されるようになったそうです。

その髻が折れている部分を確認したかったのですが、像があまりに高い位置にあるため、残念ながらよく見えませんでした。

ちなみに、お寺の門の左右にによく立っている金剛力士像(仁王像)は、執金剛神を二体に分けたものです。
うわさでは、執金剛神はすごい速さで動いて、まるで二体いるように見えることからそのようになったとも言われているんですよ^^

詳しくはこちら⇒金剛力士の特徴

御朱印

執金剛神の御開帳日のみ頂ける限定御朱印です。

東大寺法華堂 執金剛神 御朱印

御朱印は、拝観入り口に専用の受付場所が設けられていて、そこで頂きました。
入堂する前に預けて、帰りに返してもらうシステムになっています。