新薬師寺 東門

奈良市高畑町、春日大社の南側にある新薬師寺。
奈良市内には西ノ京の方に「薬師寺」という有名なお寺がありますが、お薬師さん繋がりではありますが、特別な関係があるわけではありません。
まったく別物のお寺です(東大寺とは密接な関係がありました)。

観光する側からするとややこしいですね^^;

こちらのお寺は、天平美術の最高傑作のひとつ、日本最古かつ最大の十二神将の塑像が有名なお寺です。

薬師如来と十二神将を祀る、国宝の本堂

新薬師寺 南門

トップの写真の門は東門ですが、こちらはいつも閉まっていて、玄関口になっているのは南門(重文)です。

玄関口である南門をくぐって、正面にあるのが国宝の本堂です。

新薬師寺 本堂

何度かは修理・改変はされていますが、創建当初の奈良時代から伝わる唯一の建物。
入母屋造りの本瓦葺、桁行七間、梁間五間の建物になっています。
シンプルな造りですが、屋根の曲線と白壁がきれいですね^^

新薬師寺 本堂

このような造りが天平時代の特徴を示すことから国宝に指定されています。
内部は天井に板を張らずに構造材をそのまま見せる「化粧屋根裏」になっていますので、建物に興味のある方はお堂の中でも上を見上げてみてください^^

入館は本堂の西側からです。

新薬師寺 本堂

ここからが一番の見どころなのですが、お堂の中はもちろん撮影禁止。

この中にはお薬師様と、ガードマンである十二神将がいらっしゃいます。
円形須弥壇の中央にお薬師様が鎮座していて、それを十二神将たちが取り囲んで護衛する布陣になっています。

写真では紹介できないので、購入したポストカードで紹介します。


※画像:ポストカードより

十二神将と薬師如来のポストカードのセットを購入して、実際の布陣を作ってみました(≧▽≦)

十二神将

こんな感じで取り囲んでいます。
実際には、お薬師さまは大きいですし、十二神将たちも趣味壇の上に立っていますので、下から見上げる感じになります。
迫力満点です!

十二神将は、それぞれが7千もの眷属夜叉を率いています。
総計8万4千もの大軍団のトップ12です。
そのトップが四方を守護するという、贅沢な布陣ですね。

拝観者はこの周りをぐるっと回りながら拝観することができます。
走ってみれば(走ってはいけませんが)十二神将のメリーゴーランドになりますね^^
(みうらじゅんさんが見仏記でやっていました(≧▽≦))

本堂では十二神将のフィギュアが一体3,000円位で販売されていて、とてつもなく欲しかったのですが、12体そろえるのは大変なので、断念しました^^;
それであの布陣を再現してみたいですけどね^^

ちなみに「十二」という数字は、干支とも重なるということでそれぞれの大将に十二支が割り当てられています。

大将名 国指定名 十二支
伐折羅(ばさら)大将 迷企羅(めいきら) いぬ
頞儞羅(あにら)大将 頞儞羅(あにら) ひつじ
波夷羅(はいら)大将 宮毘羅(くびら) たつ
毘羯羅(びぎゃら)大将 毘羯羅(びぎゃら)
摩虎羅(まこら)大将 摩虎羅(まこら) うさぎ
宮毘羅(くびら)大将 招杜羅(しょうとら) いのしし
招杜羅(しょうとら)大将 珊底羅(さんてら) うし
真達羅(しんだら)大将 真達羅(しんだら) とら
珊底羅(さんてら)大将 安底羅(あんてら) うま
迷企羅(めいきら)大将 因達羅(いんだら) とり
安底羅(あんてら)大将 伐折羅(ばさら) さる
因達羅(いんだら)大将 波夷羅(はいら)

十二神将像はほとんどが国宝で奈良時代から伝わるものです。
その中で、たつ年の波夷羅大将だけは昭和6年に補作されたものになっていて、国宝指定からは外れています。
江戸時代末期に地震で倒壊してしまったのだそうです。
惜しいですね^^;

切れ長の大きな目でエキゾチックなお顔立ちの御本尊は平安時代の作で、こちらも国宝になっています。

新薬師寺はかつては大寺院だった

新薬師寺は、今はこじんまりとしたお寺ですし、東大寺や興福寺とはちょっと離れていることもあってか、参拝客はちらほらという感じです。

でも、創建された当時は南都十大寺の1つに数えられるほどの大寺院だったんです。

創建は奈良時代。
天平十九年(747年)、聖武天皇の病気平癒を祈願して、光明皇后が創建しました。

一説によると、立てられた新薬師寺は8万平方メートルもの広大な寺領だったそうです。

当時は香山薬師寺と呼ばれていたようで、七仏薬師を本尊とする金堂を中心に、壇院、薬師悔過所、政所院、温室、造仏所、寺園、東西両塔など、色々な建物が存在していたんです。

しかし、新薬師寺の繁栄は長く続きません。

平安時代の宝亀11年(780)に落雷で西塔を含むいくつかの堂宇が消失、応仁二年(962)の大風では金堂が倒壊してしまいます。
さらにはダメ押しの治承4年(1180)、平重衡による南都焼き討ちがあり、現在の本堂だけが残りました。
鎌倉時代になって、地蔵堂、鐘楼などが建てられましたが、最盛期の勢いは取り戻すことができず、現在の規模になっています。

新薬師寺にはこのような歴史があるのですが、現在の本堂は、元々は本堂ではなかったんですね。
元々は食堂(じきどう)とも、密教的修法が行われていた壇院であったとも言われていますが、確実なことはわかっていません。

ちなみに、十二神将は別の場所から移されてきたものです。
鎌倉時代末まであった岩淵寺から荒廃後に移されたということがわかっています。
御本尊は創建当初からあった可能性も考えられていますが、別院から移されたとも考えられていて、そちらは詳しくはわかっていません。

新薬師寺にまつわる逸話

新薬師寺には、知っていると興味深い逸話が関係している建物や仏像がいくつかあります。

日本霊異記にも記載、鬼の爪痕が残っている釣鐘

新薬師寺 鐘楼

新薬師寺の南門をくぐってすぐ東側に、鐘楼があります。
鎌倉時代のもので重文指定されているのですが、中の梵鐘は天平時代のもの。

この梵鐘のことが日本霊異記に書かれているのです。
このような話です。

その昔、ある夜に長者の屋敷に男が忍び込みました。
男は、病で寝込んでいる妻と幼い娘に食べ物を与えるために盗みに入ったのです。
しかし男は捕まってしまい、死刑にされてしまいます。

その後、ある噂が立つようになります。

それは、夜になると元興寺の鐘楼に鬼が現れ、人に危害を加えるというものでした。
その鬼は、長者が殺した男の霊だったのです。

長者は鬼を退治してくれるものを募り、ある童子が名乗り出ました。
この童子は雷から授かった子で超人的な力持ちだったとされる、後の道場法師です。

童子と鬼は激しく戦い、なかなか決着がつきませんでしたが、朝日が昇るころ、太陽が苦手な鬼は山に逃げていきます。
童子は鬼を追ったのですが、途中で忽然と姿を消してしまいました。

このようなお話ですが、鬼を見失った場所は、現在も奈良ホテルの近くにある不審ヶ辻子町(ふしんがづしちょう)という場所なのだそうです。

不審ヶ辻子町

「鬼を見失った不審な辻」ということですね。

また、話に出てくる梵鐘は元興寺のものとなっていますが、その梵鐘はいつしか新薬師寺に移されたのだそうです。
それが現在も残っている新薬師寺の梵鐘です。

梵鐘には、道場法師と鬼が戦ったときについた鬼の爪痕がたくさん残っているとのこと。

残念ながら鐘楼は鍵がかかっているので普段は登れませんが、除夜の鐘のときはつくこともできるようです^^

ちなみに元興寺には、その時に剥ぎ取った鬼の髪が残されたとされています(時の流れで失ったようで、現在には伝わっていません)。

香薬師堂に祀られている夜泣き地蔵

新薬師寺 香薬師堂

本堂の西側には、香薬師堂というお堂があります(通常非公開)。
白鳳時代の小さな金銅仏、香薬師如来立像が祀られていました。

この仏像は75cmと小さいため、明治時代に2度も盗難にあっていますが、なんとか戻ってきています。
しかし、昭和18年に3度目の盗難にあい、以来戻ってきていないんですね。

でも、ここで安置されているのはそれだけではありませんでした。

夜泣き地蔵もその一尊です。

その昔のある夜、春日大社で子供の泣き声が聞こえてきました。

神官が不審に思い、泣き声がする方に向かうと、そこは社殿の中。
恐る恐る覗いてみると、そこにはお地蔵さまがいたのです。

「新薬師寺に帰りたい」

と泣いておられるので、神官はすぐにお地蔵さまを新薬師寺に移したのです。

平景清が残した景清地蔵とおたま地蔵

本堂には薬師如来と十二神将が祀られていますが、実はもう一尊、景清地蔵というお地蔵様が祀られています。

これは、平家の残党である平景清の伝承にちなむお地蔵様なんです。

平景清というと、昔、ナムコが出していた源平討魔伝というゲームに出てくる主人公ですね^^
このゲームでは、壇ノ浦でよみがえった景清が、鎌倉にいる源頼朝を倒しに行くゲームなのですが、景清は実際に、平家滅亡後に頼朝の命を狙っていたことがあるんです。

平家滅亡後、生き残った平景清は、身を隠しながらも源頼朝の命を狙っていました。

ある時、東大寺の再建で、頼朝が大仏開眼供養の法会に訪れるという話を聞き、暗殺計画を立て、頼朝が訪れる当日、東大寺の転害門で待ち伏せしていました。

景清は社人に変装していたのですが、不審な動きで見破られて計画は失敗、なんとか春日山に逃げることができたのです。
若草近辺に住んでいた母を訪ねて身を置いたのですが、その後そこで改心し、等身大の地蔵像を作りました。

そしてそれを身代わりとして母のもとに置き、自分は目を突いて死んでしまったのです。

母はその後、毎日この地蔵尊に景清の冥福を祈ったのだそうです。

この地蔵像が新薬師寺の本堂にある景清地蔵尊です。
お地蔵さんというと、普通は錫杖を持っているのですが、このお地蔵さんは弓を持っています。
それは景清を表しているのでしょうね^^

そして話はここで終りません。

実は1983年~1984年に、傷みが激しくなった景清地蔵の修理が行われることになり、その事前調査としてX線で撮影したところ、像内にもう一体、裸形のお地蔵さんが入っていることがわかったのです!
それがおたま地蔵尊です。

中に入っている、と言っても、手のひらサイズの小さな仏が出てくるケースはよくあるのですが、この場合はちょっと異例でした。
なんと、外の像とほぼ同じ大きさの像が入っていたのです。

この像には、タイル状につくられた木片が衣として着せるようにぺたぺたと貼られていて、外の像と一部共有したりしながらうまく組み込まれていたのだとか。
これを2躰にするにあたり、頭部を新しく作ったりなど補作を加えてなんとか分離したのだそうです。

このお地蔵さん、本当にスッポンポンなので、男性のシンボルも丸見えです^^;
でも、安産や健康に霊験あらたかとのことですよ♪

おたま地蔵尊は通常非公開ですが、お寺の人に頼めば開帳してくれます。(案内付きで別料金300円)

新薬師寺の御朱印

新薬師寺は、

  • 西国四十九薬師霊場 第6番
  • 大和北部八十八ヶ所霊場 第8番
  • 大和十三仏霊場

に指定されています。
私はそのうち、ノーマルの御朱印と西国薬師の御朱印を頂きました。

まずはノーマルの御朱印です。

新薬師寺 御朱印

西国四十九薬師霊場の御朱印です。

新薬師寺 西国薬師 御朱印

いずれも本堂内で書いてもらったのですが、字がきれいですね。


新薬師寺の本堂東側には、ステンドグラスがはめ込まれています。

新薬師寺 ステンドグラス

東側は何もないところなので目立たないのですが、それにしてもなぜこんなところに?と思ったのですが、こういうことでした。

「東方瑠璃光の光をお浴びください」

つまり、薬師如来ははるか東にある瑠璃光浄土の教主なので、そこから射し込む光は瑠璃光の光。
それを浴びようというわけです。

個人的には、国宝の建物にこんなことして大丈夫なのだろうか?とは思いますが、してしまったものは仕方ありません(≧▽≦)
光を浴びたい方は朝から行った方が良いですね^^;

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