沖縄本島の中部、うるま市にある
天空の城とも呼ばれている勝連城は、東海岸に突き出た勝連半島の小高い山の頂にあって、360度見渡せる景色は最高です♪
上の写真のように、下から見上げても難攻不落の要塞のようでかっこいいですよね。
でも、沖縄の城(グスク)は、日本の城のように、単なる有力者の居城ではない、との説も上がっています。
その中の一つが、
「御嶽」というのは、琉球の信仰でいう「聖地」のこと。
祈りの場なんです。
位置付けは神社やお寺と同じですね^^
グスク=御嶽 説は、「説」なので実際はわかりません。
それは考えすぎで、普通に「城」なのかもしれません。
でも、勝連城には御嶽が存在します。
「城」でありながら、「御嶽」でもある、という面白い存在ですね^^
というわけで、勝連城を散策してみました。
首里王府に最後まで抵抗した、勝連城主 阿麻和利の伝説
琉球王国が出来たのは、1429年、日本では室町時代にあたります。
それから450年琉球王朝時代が続くわけですが、それまでは「グスク時代」といって、各地域にグスクが乱立、
たくさんのグスクが誕生しましたが、次第に勢力が南山、中山、北山の三山になり、最後に中山王が沖縄を統一しました。
それが首里に拠点をおく琉球王朝です。
一方で勝連城は、12~13世紀頃に築かれたグスクで、1458年に琉球王府によって滅ぼされるまで10代の按司が治めていました。
勝連の地域は東海岸の半島にあり、地の利を活かした海外貿易が盛んな土地柄だったそうです。
琉球王国も安定していく中、勝連は琉球王府とは別の道を歩み続けますが、10代目の按司、
阿麻和利については諸説ありますが、このような伝説があります。
阿麻和利はもともと北谷間切の屋良村生まれの平民でした。
勝連へと流れ着いた阿麻和利は、当時の按司に召し抱えられましたが、その按司は圧政を敷く上に自分は酒に溺れるようなダメ按司で、人気がありませんでした。
阿麻和利は巧みに人々の心をつかみ、ついには勝連按司を倒し、自ら按司になったのです。
若くして按司になった阿麻和利は、人々から慕われ、歴代の勝連按司の中でも優秀、海外貿易も盛んに行ってますます力をつけました。
おかげで勝連は豊かな経済力と軍事力を持ち、沖縄でも有力な都市で、日本の京都や鎌倉にたとえられるくらい栄えていたそうです。
そのように勢いをつける阿麻和利に、時の琉球国王「尚泰久」は脅威を持ち、牽制するために自分の娘「
そして、父「尚巴志」の代から仕えていた重臣、
そんなある日、阿麻和利は首里に出向き、
「護佐丸が謀反を企て、兵を訓練させている」
と王に進言。
王は中城に偵察をやってみると、護佐丸は本当に兵の訓練をしていたのです。
そこで王は、阿麻和利を大将にして中城の攻撃を命じます。
護佐丸は、
「王の命とあらば仕方がない」
と自刃してしまいました。
(1458年 護佐丸・阿麻和利の乱)
実はこれは、阿麻和利の策略で、護佐丸は阿麻和利対策の訓練をしていたのでした。
阿麻和利の計略を知った百十踏揚は勝連城を脱出、首里に逃げ帰り、夫に謀反の意があることを王に伝えます。
事実を知った王は、軍勢を送り、阿麻和利を滅ぼしたのです。
それによって勝連は衰退、琉球王国はより安定したのでした。
阿麻和利は野心家なイメージがありますが上で紹介した歴史はあくまで勝者である首里王府側から伝わった歴史。
地元では、阿麻和利をたたえる「
「肝高」というのは、「心豊か」「気高い」といった意味で、阿麻和利は地元では英雄視されているのです。
実際の歴史はどうだったんでしょうね^^
防御を意識した難攻不落な城跡
勝連城の城壁は、琉球石灰岩が使われています。
沖縄ではよくつかわれる石材なのですが、勝連城の城壁はそれを「布積み」という技法で積まれています。
これは、自然にの石を大まかに加工して積んだ「
そのような城壁が、東西にくねくねとめぐらされているのです。
この城壁沿いに登っていくのですが、下から「四の
下の写真は、城に登る前の「四の曲輪」あたりから下を見下ろした写真です。
発掘作業中のブルーシートがかかっていますが、おそらくその道は城に向かう旧道。
しかしそのあたりは水量豊富な湿地帯だったそうで、平時は農地としていたものの、戦争時は防御ラインとしての役割を果たしていたのだそうです。
湿地帯、丘の上、くねくね城壁・・・
首里王府はこういう城を攻め落としたのですから、大したものですね^^
上を目指して登ってみると、距離は大したことないのに、ちょっと大変・・
三の曲輪の前にあった城門跡。
なかなか大きそうです。
そして一の曲輪まで登ると、階段はこんなにも狭いです。
後ろの海はきれいですけどね^^
日陰もなく暑い日差しの中、登るのは結構体力を消耗します^^;
海風がつねに吹いているのが救いでした。
一の曲輪から見る景色は絶景!
向こうに見えるのは平安座島と浜比嘉島。
海の色がきれいです♪
貿易が盛んだったのもわかりますね。
勝連城のところどころに御嶽が存在する
先ほどは上に登ることばかり取り上げましたが、途中、ところどころに御嶽があります。
まずは四の曲輪にあるマチダ・ナケージガー。
雑草に隠れてわかりにくいですが、井戸ですね。
沖縄ではこういう井戸や泉などを「カー」とか「ガー」といいます。
マチダ・ナケージガーは、四の曲輪の端っこ、こういう場所にあります。
今見るとただの古い井戸なのですが、王府編纂の地誌「琉球国由来記」によると、「マチダの御嶽」「ナケージの御嶽」に縁起をもつ特別な場所なのだとか。
どこにあるのかはわかりませんが、繋がっているということなのでしょうね。
そして、神々と繋がる泉(カー)として、300年以上の歴史を持つ祈りの場なのだそうです。
現在も村の安寧を祈る地域信仰の対象になっているとのこと。
お次は城壁近くにあるウタミシガー。
岩じゃありませんよ^^
「ガー」ですから、下の井戸です。
このガーでは、旧暦元旦の日に、一年の豊作・不作を占います。
水が豊富にあると不作、少ない時は豊作なのだとか。
ウタミシガーの近くにはミートゥガーもあります。
こちらは縁結びのカーといわれているそうです!
かつてこの場所が男女の逢瀬の場だったことからそうなっているようです。
じゃあ、縁結びを願う人は急いでここに・・・と言いたいところですが、注意点が一つだけあります。
実は、ここで結ばれた男女が別れた場合、どちらかに不幸がおきるともいわれているんです><
かなりの高リスクです!
ここで祈る場合は、お相手がファイナルアンサーである必要がありますね^^;
四の曲輪はカーばかりですが、これだけ祈りの場があります。
四の曲輪は一般の住居もあったと考えられていますから、ここは民間の祈りの場なのでしょうね。
続いては三の曲輪に登ります。
ここは、城内に上がる時の控え場所だったようですが、ここには、肝高の御嶽があります。
ここは
この周りの石に神人達が腰かけて、旧暦二月・三月には「麦」の、旧暦五月・六月には「稲」の豊作を願ったのだそうです。
「肝高」という名前から、阿麻和利を祀っていることが考えられるのですが、そうだとしたら勝連按司の時代からではなく、琉球王朝時代からの御嶽ということになりますね。
二の曲輪に登ると、ここには舎殿があった跡があります。
本丸があったと考えられる場所ですが、ここには火の神を祀る御嶽ウミチムンがあります。
この場所は台所だったようです。
台所に火の神を祀る風習は、日本本土にもありますね^^
そしてただ火の神を祀っているだけでなく、この場所から神話を残す周辺の島々の遥拝を行っていたようです。
神話を残す周辺の島と言えば「浜比嘉島」がありますが、ここには琉球の祖神、アマミチューとシルミチューが眠っています。
⇒琉球を造った神が眠る アマミチューの墓
⇒琉球開闢の祖神の住居跡、シルミチュー霊場
橋を渡って車で行けますよ^^
そして頂上にある一の曲輪。
今は先ほど紹介したように360度のパノラマが広がる景色のよい場所ですが、ここには宝物殿のような建物があったと考えられています。
そしてここにある御嶽が玉ノミウヂ御嶽です。
何の変哲もない岩のように見えますが、実はこの岩、勝連を守護する霊石。
勝連城で御神体として祀っていたものです。
知らないと霊石の上に乗って洞穴を覗いてしまいそうになりますね^^;
しかし、グスク時代はこの霊石も建物の基礎に利用されていたようです!
そういう扱いで良かったのでしょうか?^^;
また、洞穴は、二の曲輪につながっていて、有事の際の避難路として使われていたそうです。
しかし、敵は下から登ってくるので、有事の際も特に役に立たなそうな気がするのですが・・・^^;
よくわからないことだらけですね^^;
勝連城は、今でこそ世界遺産の一つになっていますが、1980年代までは古墳のように木々に囲まれていて、近寄る人もいなかったのだとか。
しかも戦前はもっとひどくて、城壁の石積みを、防波堤を造るために大量に持ち出していたのだそうです。
なかなか残念な話ですね><
出来れば首里城のように元の姿を見てみたい・・・
そう思える城でした。
ちなみに勝連城は、世界遺産なのに今のところ無料で入れます。
しかも、エアコンがガンガン効いた休憩所まであります!
城を散策すると、日陰がないのでとにかく大変なのですが、この休憩所に帰ってきたら安心しますね^^