お布施ってなに?

お布施は、身近にありながらもいざ支払う時となると意外と知らないもの。

金額の相場は?
渡すタイミングは?
金額高すぎない?

お布施に関しては、色々思うところはあります。
いくら渡したらよいのか?お坊さんに聞いても

「お気持ちで」

と、あいまいな答えが多いと思います。
それがはっきりしないから困っているというのに、悩ましいですよね^^;

お布施というと、日本ではお寺にお金をあげるものというイメージが強いです。
しかも、お葬式や法事での読経や戒名を頂いたことへの対価として支払う感覚ではないでしょうか?

しかしそれは誤解です。
商売じゃないんですね。

現代では、葬儀屋さんやお寺がお布施の値段を設定しているところもあります。
一見わかりやすくて親切に思えるのですが、本来の意味とはかけ離れてしまっているのです。

むしろお釈迦様は、お布施が商売になってはいけないと言っているのです。

この本は、そもそもお布施はどういうものなのか?ということを、初期仏教(パーリ)の経典から紐解く本となっています。

お布施の本来の意味

お布施の本来の意味は、至って単純です。

誰かが誰かに、何かをあげる行為

です。
「お布施」と書いた封筒に入れたお金がお布施なのではなく「あげる行為」がお布施です。
その行為は、報酬・お礼としてのものではなく、人のためになることを喜んでしてあげるという善意に基づくものなのです。

善意でやるものなので、本来はお布施をするかどうかは各人の自由なんですね。
やらなかったからといって、責められるべきものではありません。
それが、対価・報酬とは違うところです。

日本ではお金が一般的ですが、お金以外にも、食べ物や品物をあげることもお布施です。
また、ものを「あげる」以外に「してあげる」という行為もお布施に含まれます。

用事を手伝ったり、ものを貸してあげたり、教えてあげたりなど、体力、労力、時間、知識、アイデアなどを使って誰かのために「してあげる」ことってありますよね。
それらはお布施に入るのです。

お坊さんに対する行為に限らず、一般の人に対してであっても、誰かにあげる、してあげる行為なら、それはお布施です。

相手が役立つことをしてあげれば、お金でなくてもそれはお布施なのです。

本来の意味はいたってシンプルなんですね^^

お布施をすると功徳が生じる

お布施の意味合いはシンプルなのですが、その効果は絶大です。
お布施をすると、お布施をした人に功徳が生じます。

善いことをした、と思ったら、誰だって気分が良くなりますよね。
している最中や直後の爽快さがあるのはもちろんですが、その善行為は心に刻み込まれますので、後にまで影響力を残します。

その影響力が功徳なのです。

お布施によって「善」の状態になった心は、時間が経つとその状態はだんだんとフラットになっていくのですが、善い行いをしたことは時間が経っても心は覚えています。

善行為を何度も行っていくと、「善」の状態に何度も触れることになりますので、記憶法と同じでその状態が記憶されていきます。
次第に「善」の状態が普通の状態になっていくわけです。

仏教では、お布施は悟りへの第一歩とされていて、布施波羅蜜という修行にもなっています。
仏教の修行は、一般の人ではなかなかできないものが多いですが、その中でお布施は一般の人でもやりやすい行ですね。

悟りは煩悩を滅することで導かれるのですが、「善」の心を作ることは煩悩を滅することにも繋がります。

お布施をすれば功徳が得られる、というのはそういうことだったんですね。

「功徳」の反対は「業」

功徳を積めば心が大きくなります。
心がどんどん拡がって明るく、楽になっていきます。

逆に、悪いこと、やましいことをすれば、その行為も心に影響力を残します。
それを仏教では「(ごう)」といいます。

  • 善行為には功徳と楽果
  • 悪行為には悪徳と苦果

が生じます。
それが善悪の因果法則なのです。

自分が死んだ時、今まで貯めたお金や物は死後の世界に持っていけませんが、功徳や業は、死後も次の世界へ持ち越すものになります。

それなら、生きている間に業を取り除き、功徳を積みたいですね^^

お布施でより多くの功徳を得えるための心構え

お布施をするときに大事なのは、心の中身です。
心構え次第で得られる功徳の量が変わるのです。

心を込めて、施物を受ける相手を敬って行う

「この程度のものをこの程度与えればよいだろう」
「わたしは忙しいからあなたやっといて」

という感じの、形ばかりのお布施ではなく

「どうかこの食事で身体を支えてお元気になってください」

というような、相手を思いやる心構えです。
お布施の準備をしている時も、お布施をしている最中も、お布施が終わったあとも心を込めてやることで、功徳がうなぎ登りです^^

身体を使う仕事を自分でやる

「お金置いておくから、適当に材料買って作って出しといて」

と言い残して出かけるのではなく、自分が積極的に関わるということです。

自分で関われることは色々あります。
食事の材料を作る、食事を作る、玄関まで出ていって出迎える、席まで案内する、給仕する、玄関まで見送る、など、考えられることはいっぱいありますね。

もちろん、一人だとできないこともあるので全てをやるべきということではありませんが、心がこもっていれば自然と「こうしてあげたい」が頭に浮かび、自分で考えて動くはずです。

こういう身体を使った仕事を自分でやると、人任せのときよりも心が大きく変化しますので功徳はうなぎ登りです^^

相手のためになっているかどうかを考える

ただし、心がこもっていればそれでよいか、というと、やらないよりは良いのですが、まだまだ目指すべきところがあります。
それが、本当に相手のためになっているかどうかを考えることです。

自分は良かれと思っていても、相手にとっては余計なお世話だった、ということもあります。
それを考えずにやるのは、自己中心的と言わざるを得ないでしょう。

例えば、本来なら相手が頑張らないといけないところなのに、飴を与えてしまうようなことになってしまう場合があります。
そうすると、欲を助長してしまったり、怠け心を育んでしまうことになりかねません。

そのうち、相手はあなたへ依存しなければ生きていけなくなります。
そうなると不幸ですよね。

そうならないようにするためにも、お布施をするときは、相手のためになっているかどうか、考えられる智慧が必要です。

相手が困っている時、相手のためになることをタイムリーにしてあげることは、智慧による瞬間の判断が必要な、最高のお布施となります。
その時に得られる功徳は絶大です。

功徳が減ってしまう、気を付けたいお布施の仕方

基本的に善行為は、必ずなんらかの功徳は得られます。

上では心がけ次第でより多くの功徳が得られることを書きましたが、逆に心掛けが不純だと、同じことをやっていても得られる功徳が少なくなってしまうので注意が必要です。

見返りを求めてしまう

見返りを求めるのは、相手のためというよりも、自分のためと考えていることは明白ですよね。

金品や行為の見返りを求めないようにすることは言うまでもないのですが、気を付けたいのは、お布施をしたときに得られる「爽快感」です。

善行為をすると、人は爽快感を覚えます。
それは、相手が喜んでもらった後に来る副次的な効果です。

それ自体は良いことなのですが、いつの間にか爽快感を得ることがメインになってしまうと、相手を思いやってやることがおざなりになってしまいかねません。

例えば、相手に「ありがとう」など感謝の言葉を求めていないでしょうか?

やってもらったのに感謝の言葉もない、と怒りたくなる気持ちはわかりますが、そこに焦点を当てている状態は、見返りを求めている状態です。
相手の反応はどうあれ、自分の心は善い状態に保ちたいもの。

仏教におけるお布施の修行は、二十四時間途切れることなく「だれかのために役立とう」という気持ちが続くようになれば完成するといいます。

善行為は、感謝されるためにやるのではなく、当たり前のこととしてやるのが大切ですね。

イヤイヤしてしまう

何の見返りを求めず、誰かを助けることは善いことです。
ただ、それもイヤイヤ行うと、同じことをしても功徳が半減します。

そういう心持ちで行っても、心にしこりが残りますので、功徳が半減するという理由もわかりますよね^^

「めんどくさいなあ」

みたいな気持ちは、煩悩なのです。
それは仏教では打ち勝つべきものとされています。

「本当はしてあげたくない」

みたいな気持ちがあれば、それは物惜しみであり、怒りです。
そちらも煩悩です。

もちろん、善行為はやらないよりはした方がなんらかの功徳は得られるのですが、得られる功徳の大きさは何万倍も違ってくるのです。

どうせやるなら、プラス思考で気持ちよくやる理由を探すように心がけたいところですね^^


このように、お布施の功徳の差は、善心の差によるところがあります。

施物の量や内容には関係ありません。
自発的に、見返りを考えることなく、喜捨の心と智慧をもって行うことがポイントということですね^^

この本ではさらに、お布施を受ける側の人によっても功徳の多さは違うと書かれています。

お釈迦様は細かく14種類のランクに分けて説明しているそうなのですが、ここから先はこの本を読んでみてください^^