神社・神道用語集 た

お寺・仏教用語集 た

神社・神道用語集 ち

お寺・仏教用語集 ち

神社・神道用語集 つ

お寺・仏教用語集 つ

神社・神道用語集 て

お寺・仏教用語集 て

神社・神道用語集 と

お寺・仏教用語集 と

第1代 神武天皇(じんむてんのう)

日本の初代天皇とされていて、古事記、日本書紀の神話に登場する。
天皇が即位した月日は新暦で2月11日に換算され、その日を建国記念日とし、祭日(紀元節)とされている。

しかし、歴史的には史実とは考えられていない。

第10代 崇神天皇(すじんてんのう)

古事記では所知初国天皇(はつくにしらししすめらみこと)、日本書紀では御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられ、初めて国を統治したという称号で、大和朝廷の始祖的な天皇として推測されている。

大神神社の伝承もこの頃に起き、大物主神と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の祭祀者をさだめ、諸神をお祀りするとともに、天つ神・国つ神を祀る制度を整えた。

第12代 景行天皇(けいこうてんのう)

日本武尊(やまとたけるのみこと)の父。
日本武尊に、九州の熊襲や蝦夷征討を命じた。

第15代 応神天皇(おうじんてんのう)

父は第14代 仲哀天皇、母は神功皇后。
神功皇后の三韓征伐の帰途で生まれたとされる。

八幡神は応神天皇の神霊とされていて、比売神(皇后の仲姫命)と神功皇后を合わせて八幡三神とされている。

第29代 欽明天皇(きんめいてんのう)

仏教が伝来した頃の天皇(在位539年?~571年?)。
医術・易・暦などもこの頃に伝わった。

第31代 用明天皇(ようめいてんのう)

在位585年?~587年?
初めて神道の用語を見出した文献「用明天皇紀」が残っている。

天皇(すめらのみこと)、仏法を信けたまい、神道を尊びたまう」

天皇は仏教を受容され、神道を尊重された、という意味。

第32代 崇峻天皇(すしゅんてんのう)

日本で仏教が興隆した頃の天皇(在位587年?~592年?)。
蘇我馬子の指図によって暗殺された。

それまで崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏・中臣氏の対立が続いていたが、蘇我馬子と物部守屋が政治的に衝突し、蘇我氏が勝利を収めた結果、仏教が認められていくことになった。

第33代 推古天皇(すいこてんのう)

聖徳太子を摂政においた、日本初の女性天皇(在位592年~628年)。

本来悟りを開くことを目的とする仏教の本質とは違い、在来の信仰を土台として仏教が受容された時代。
臣連(おみむらじ)たちは親の恩の為に競って仏舎を造造り、現世利益的なものとして受け入れた。

そんな中、推古天皇は仏教を受容されながらも神々のお祀りも大切にした。

第37代 斉明天皇(さいめいてんのう)

第35代皇極天皇が重祚(ちょうそ)(再度即位すること)してなった天皇(在位655年~661年)。

唐・新羅軍と戦って滅ぼされた百済復興を支援するために朝鮮半島に大軍を派遣した(白村江の戦い)が大敗。

第38代 天智天皇(てんじてんのう)

大化の改新を成し遂げた中大兄皇子が即位(在位661年~671年)。
守りに強い土地柄で、交通の要である大津(近江大津宮)に都を移して即位した。

「近江令」を施行して律令国家の基礎を築き、本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成、公地公民制を導入した。

第40代 天武天皇(てんむてんのう)

飛鳥時代後期、「日本」という国号が用いられるようになった頃。
壬申の乱(皇位継承をめぐる争い)で勝利した天智天皇の弟、大海人皇子(おおあまのみこ)飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位(在位673年~686年)。

大臣を任命せずに皇族だけで政治を行い、中央集権的な国家体制の形成を進めた。

旧来の氏族制度を改革して官僚制度を形成し、姓の制度を八つに改める八色の姓(やくさのかばね)を定め、大王家と関係の深いものを上位においた。

斎宮制度を整備し、伊勢神宮の式年遷宮をご発意。
大嘗祭(だいじょうさい)のことが「日本書紀」に初めて見られるのも天武天皇の御代で、祈年祭の骨格も形づくられた。

国史の編纂を始められ、それがのちの「古事記」「日本書紀」になる。

第41代 持統天皇(じとうてんのう)

天武天皇の皇后で、飛鳥浄御原令を施行した天皇(在位686年~697年)。
「天皇」のの称号も飛鳥浄御原令で正式に規定した。
日本最初の本格的な都城、藤原京に遷都した。

伊勢神宮の第一回式年遷宮も行われた。

第42代 文武天皇(もんむてんのう)

大宝律令(701年)を完成させた天皇(在位697年~707年)。
唐の律令にならいながら初めて「律」と「令」がともに編纂された。

年号が実際に使われたのはこの「大宝」からで、「日本」の国号が対外的に正式に用いられたのも大宝2年の遣唐使以降からのこと。

第43代 元明天皇(げんめいてんのう)

第42第 文武天皇の母で、都を平城京に遷都した奈良時代最初の天皇(在位707年~715年)。
和銅5年(712年)、「古事記」が完成する。
和銅6年に「風土記」の編纂が始まる。

第44代 元正天皇(げんしょうてんのう)

文武天皇の姉。
文武天皇の子(後の聖武天皇)が若いために即位した天皇(在位715年~724年)。

この頃に藤原不比等らが中心となって養老律令の編さんを始める(717年)。
養老4年(720年)に日本書紀が完成する。

第45代 聖武天皇(しょうむてんのう)

「国分寺建立の詔」や「大仏造立の詔」を出された天皇(在位724年~749年)。

長屋王の変(729年)や藤原広嗣の乱(740年)など、政治的に不安定で遷都を繰り返し、飢饉や疫病も流行る世の中だった。
聖武天皇は仏教で国家の安定を図ろうとし、諸国に国分寺・国分尼寺を造り、大仏を造り始めた。
娘である第46代孝謙天皇の御代に完成する。

奈良時代の文化は、聖武天皇の御代の年号をとって天平文化という。

第46代 孝謙天皇(こうげんてんのう)

聖武天皇の娘(在位749年~758年)。
孝謙天皇の御代に東大寺の大仏が完成し、開眼供養が行われた。

また、一度皇位を退いた後に第48代 称徳天皇として重祚したが(在位764年~770年)、法相宗の僧・道鏡を寵愛し、皇位を譲ろうとした。
その際、宇佐八幡神の託宣で挫折した。
天武天皇系最後の天皇で、この後は天智天皇系の天皇が続く。

第50代 桓武天皇(かんむてんのう)

平安遷都を実現させた、平安時代最初の天皇(在位781年~806年)。

仏教の勢力が政治に影響するようになったため、都を長岡京に遷都したが、疫病や洪水、皇族の死が相次いだ。
それが無実の罪で配流・死亡した早良親王の祟りであると考えられ、風水で四神相応の土地とされた平安京に遷都した。

遷都後は律令の整備と、地方政治に力を入れた。
また、伊勢神宮の社殿や祭祀の内容を記した「皇太神宮儀式帳」と「止由気宮儀式帳」を作成させた。
延暦23年(804年)に成立したこの2冊を合わせて「延暦儀式帳」といい、神宮の基本資料として、また古代の祭祀に関する最古の詳細記録とされている。

霊験あらたかな神(名神)への奉幣(名神奉幣)も桓武天皇の御代から頻繁に行われるようになった。

第53代 淳和天皇(じゅんなてんのう)

第50代 桓武天皇の第七皇子(在位823年~833年)。
律令の解釈を統一するため、養老令の公的注釈書、令義解(りょうのぎげ)の編纂を命じた。

第59代 宇多天皇(うだてんのう)

藤原氏の勢力が増す中、摂政・関白をおかず、学者の菅原道真など、藤原家から離れた人物を抜擢した天皇(在位887年~897年)。
日本三代実録の編纂をはじめさせた。

この頃から朝廷祭祀は天皇御願のものの占める割合が強くなった。
賀茂の神のご神託により即位することができたことから、賀茂臨時祭を行うようになった。
賀茂臨時祭は、後の神社行幸になる。(1870年まで続けられた)

宇多天皇が次代の天皇でまだ13歳だった醍醐天皇に譲位する際、教訓書として寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)を与えた。

第60代 醍醐天皇(だいごてんのう)

荘園整理令の施行させ、延喜式の編纂を命じた天皇(在位897年~930年)。
摂関を置かずに数々の業績を残したため後代になって「延喜の治」として謳われている。

日本三代実録を菅原道真らに編纂させ、完成させる。
和歌の振興に力を入れ、延喜5年(905年)には『古今和歌集』の撰進を紀貫之らに命じている。

祭祀では、先帝の訓示「寛平御遺誡」を受けて石灰壇(いしばいのだん)毎朝御拝(まいあさごはい)を行うようになった。

第66代 一条天皇(いちじょうてんのう)

平安中期、藤原家が全盛の時の天皇(在位986年~1011年)。
紫式部や清少納言らによって平安文学が開けた。

天皇ご自身が特定の神社に赴き、祈願する神社行幸を制度化した。

三種の神器の一つ、八咫鏡(やたのかがみ)を祀る宮中の賢所(かしこどころ)(内侍所)の前で御神楽が行われるようになり、内侍所の祭祀が整えられた。
(現在も「賢所御神楽の儀」として12月中旬に行われている)

第84代 順徳天皇(じゅんとくてんのう)

鎌倉幕府打倒に積極的で、承久の乱を引き起こした天皇(在位1210年~1221年)。

王朝時代の有職故実を研究し、鎌倉幕府に対抗して朝廷の威厳を示す目的もあって、宮中の儀式や政務のあり方を記した禁秘抄(きんぴしょう)を著した。

承久の乱で倒幕に失敗して佐渡へ配流となり、配流先で崩御された。

第96代 御醍醐天皇(ごだいごてんのう)

鎌倉時代後期から南北朝時代初期の天皇で、南朝の初代天皇(在位1318年~1339年)。

この時代に、側近の北畠親房が「元元集」「神皇正統記」「二十一社記」などの神道書を著している。

第102代 後花園天皇(ごはなぞのてんのう)

室町時代の天皇(在位1428年~1464年)。

寛正3年(1462年)に第40回内宮式年遷宮が行われたが、その後、応仁の乱に始まる戦乱の戦国時代に突入し、式年遷宮はこれを最後に約120年間中断された。

第103代 後土御門天皇(ごつちみかどごてんのう)

室町時代の天皇(在位1464年~1500年)。

在位中に応仁の乱が起こり、御土御門天皇の御即位を最後に大嘗祭や恒例祭祀、諸社への奉幣が、1世紀におよび中断された。

第107代 後陽成天皇(ごようぜいてんのう)

安土桃山時代から江戸時代初期の天皇(在位1586年~1611年)。

学問を好み、慶長勅版を刊行することで木版の出版物が広く社会に流通するようになり、近世の文芸復興に大きく貢献した。
これにより日本書紀神代巻や論語、日本書紀の注釈書などが出版され、新しい神道家を次々に生み出す契機になった。

第109代 後光明天皇(ごこうみょうてんのう)

江戸時代前期の天皇(在位1643年~1654年)。
第3代将軍 徳川家光から第4代家綱の時代にあたる。

正保4年(1647年)に、180年ぶりとなる神嘗祭への奉幣を実現させた。

第113代 東山天皇(ひがしやまてんのう)

江戸時代中期の天皇(在位1687年~1709年)。
第5代将軍徳川綱吉はことのほか皇室を敬っていたため、皇室領は1万石から3万石に増えた。
天皇即位に際し、221年ぶりに大嘗祭が再興された。

ただし、加茂川での御禊行幸(大嘗祭の前月に賀茂川の河原などで行うみそぎの儀式)は、禁中並公家諸法度による天皇外出禁止の方針から認められず、以降の江戸時代の間は御所内で行われた。

第115代 桜町天皇(さくらまちてんのう)

江戸時代の天皇(在位1735年~1747年)。
8代将軍徳川吉宗と関白一条兼香の補佐を得て朝廷の儀式の復古に力を入れ、宮中での新嘗祭を再興された。

また、延享元年(1744年)には上七社への奉幣使が303年ぶりに発遣され、宇佐宮・香椎宮奉幣使が426年ぶりに発遣された。

大教宣布の詔(だいきょうせんぷのみことのり)

明治3年に発せられた詔。
天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本を祭政一致の国家とする国家方針を示した。
宣教師をおいて都市部を中心に活動させたが、廃藩置県前であったことや人材不足から活動の趣旨や方針などが正確に伝わらなず、うまく進展しなかった。

大乗戒(だいじょうかい)

大乗仏教の僧や信者に与えられる戒。
菩薩戒ともいう。

出家者が受ける具足戒は罰則規定もある厳しいものであるのに対し、誰でも受けられる大乗戒はあくまで努力目標である。

大日経(だいにちきょう)

宇宙の根本仏である大日如来が、直接語るというかたちの最初の経典。
悟りに至るための心のあり方とその実践方法を説く。

これで密教が体系化されたと考えられている。

胎蔵界曼荼羅はこの大日経の宇宙を図示したもの。

大般若経(だいはんにゃきょう)

大乗仏教の基本哲学「くう」の思想について書かれている経典。
全六百巻もある膨大な経典になっている。

その神髄をコンパクトに、二百六十二文字に凝縮したものが「般若心経」となる。

多重塔(たじゅうとう)

三重塔や五重塔を総称して、多重塔という。
中世までは七重や九重の塔も造られたが、日本は地震国であるため、高層の塔は建てられなくなった。

なお、裳階(もこし)と呼ばれる庇をつけた塔もあり、三重塔が六重塔に見えたりすることもあるので注意が必要。

脱活乾漆(だっかつかんしつ)

仏像を造る際の技法。
脱乾漆ともいう。

はじめに木や粘土などで原形をつくり、その上から麻布などを漆で貼り重ねて成形する。
最後に原型の木や粘土を取り除く方法で、内部は空洞となる。

興福寺の阿修羅像などが脱活乾漆造で造られている。

塔頭(たっちゅう)

禅宗において、本寺の境内にある小寺のこと。

本来は、禅宗の寺院において、宗派を生んだり復興したりした「祖師」と呼ばれる僧侶を供養する塔がある場所を指した。
祖師の死後、師を慕って弟子が塔の頭(ほとり)に坊を構えたことからその名がつけられた。

桃山時代以降、武家が菩提寺を建てるようになったことから、現在は境内の小寺全般を指すようになった。

多宝塔(たほうとう)

空海がもたらした形式で、一階が四角平面で、二階が円形平面の二層の塔のこと。
真言宗の本尊、大日如来を祀るための塔。

石山寺 多宝塔
(写真:石山寺の多宝塔)

高天原(たかまのはら)

記紀神話の天津神がお住みになる場所。
人間の住む葦原之中津国(あしはらのなかつくに)に対して天上にあると言われているが、実在する場所を比定する説もある。

玉串(たまぐし)

神祭りで神職や参拝者が神前を拝礼するときに捧げる榊の小枝のこと。
小枝には紙垂ないし木綿を垂らしてある。

玉串

「たまぐし」の由来や語源については諸説あるが「たま」は「神霊」、「くし」は神霊の「依代」との説明が有力。

鎮魂祭(たましずめのまつり)

新嘗祭の前日(11月22日)、天皇の霊魂を強化するために行われるお祭り。
「みたまふり」「みたましずめ」「おおみたまふり」「たましずめのまつり」などともいう。
神祇令で定められている祭の一つで、宮中三殿に近い綾綺殿にて行われる。

旧暦の頃は、11月の2度目の寅の日に行われていた。

陀羅尼だらに

仏教で用いられる呪文のうち、比較的長いものをいう。
大乗経典の中にはたくさんの陀羅尼が説かれ、中には陀羅尼の章が設けられているものもある。

もともとは「理解し、記憶する能力」または「記憶すべきもの」という意味で、記憶したり唱えたりしやすいようにされてきたことから「真言」と同じ意味となってきたことから「真言陀羅尼」とも言われるようになった。

智拳印(ちけんいん)

金剛界曼荼羅の主尊である大日如来の印。
菩提印ともいう。

中世日本紀(ちゅうせいにほんぎ)

平安末期以降に生まれた、「日本書紀」等に基づいた神話群。

この時代、日本書紀は古典となっていて、正しく理解するには知識が必要になっていた。
そこで、この時代での解釈に基づいて神話群が生まれた。
主に本地垂迹説などに則り多様に解釈・再編成されていて、「中世神話」とも称される。

代表的なものに、鎌倉初期までに成立した中臣祓訓解(なかとみのはらえくんげ)がある。

中道(ちゅうどう)

相互に対立し矛盾する2つのうち、極端な方に偏らず、バランスのとれた適正な位置の考えをとること。
どちらにも囚われない立場。

例:【快楽 ⇔ 苦行】

  • 快楽:欲のままに行動し安楽な生活を求めて行くと、貪欲になったりエゴイズムに陥る。
  • 苦行:ストイックに厳しい修行を行っていると、非人間的な状態に陥る。

例2:【断見 ⇔ 常見】

  • 断見:現世と来世は連続しないとし、二度と生まれ変わることはないという見解。
  • 常見:現世と来世は連続していて、苦が滅するまで輪廻転生を続けるという見解。

中道の立場でいるための具体的方法として、八正道(はっしょうどう)が説かれている。

調伏(ちょうふく)

心身を整えて煩悩や悪行を制すること。

長吏(ちょうり)

大寺を統括する首席の僧職のこと。
お寺や宗派によって、座主(ざす)別当(べっとう)検校(けんぎょう)と呼び方が異なる。

頂相(ちんぞう)

禅宗における高僧の肖像。
多くは描かれた人物の上に、その禅僧を賞賛することば「(さん)」が書かれており、描かれた僧が斜め右を向いていたら、賛文は右から左へ、斜め左を向いていたら賛文は左から右へ書かれている。
江戸時代になって黄檗宗が正面向きで描いたことから、その後は正面向きが一般的になった。

禅宗では、頂相に賛や法語を書いたものを弟子に与え、印可(いんか)嗣法(しほう)の証明とした。

月次祭(つきなみのまつり)

6月と12月の年2回行われる大祭で、国家安泰と天皇の福運を祈る。
神祇令で定められている祭の一つ。
古くは畿内に祀られている304座の神に対し、朝廷(神祇官)から幣帛が分け与えられた。
原義は月ごとのまつりだが延喜式で年2回行うことが決められている。
神嘗祭と合わせて三節祭、又は三時祭と称される。

現在は全国の神社でも、過ぎし一ヶ月のご神徳を感謝するとともに、来る一ヶ月のご守護を祈願させていただくお祭りとして毎月行っている所もある。

帝紀(ていき)

王の皇位継承を中心とする古代の伝承・歴史を記した書。
6世紀にまとめられ、「古事記」「日本書紀」に先立つ文献資料だが、現在は現存していない。

手水(てみず)

神域である神社に入る前に、手を洗って口をすすぐことで罪や穢れを洗い、身を清めるための作法。
「手水」は「てみず」「ちょうず」ともいい、手水を行う場所を手水舎(てみずしゃ)という。

手水の作法は、

  1. 右手で柄杓(ひしゃく)を取る
  2. 柄杓に水を汲んで左手に注ぐ
  3. 柄杓を左手に持ち替えて同様に右手に注ぐ
  4. 再び右手に持ち替え、左手の掌でうけ、その水で口をすすぐ
  5. もう一度左手に水を注ぐ
  6. 最後に柄杓を立てて、柄の部分を流す

というやり方が一般的。

寺請制度(てらうけせいど)

江戸時代に行われた、宗教統制を行うための制度。
幕府がキリスト教を弾圧し、民衆を管理統制するために行った制度で、全ての人は家単位でどこかの寺院に所属、檀家となることで、キリスト教徒ではないことを証明した。

その際に造った宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)は戸籍としての性格も持つようになった。

寺請制度では旦那寺での葬儀・法要が規定されており、仏式の葬儀が義務付けられていた。
これは神職も例外なく適用されていた。

これによって、日本人が主体的な意味での信仰を意識することが稀になった。

伝奏(でんそう)

院政期に朝廷に成立した、神社と朝廷との仲介役となる役職。
神社の祭祀や訴訟などの全般を朝廷に取り次いだ。

有力大社が伝奏を持っており、神社毎に特定の公家が務めていた。
特に神宮伝奏や賀茂伝奏は大臣や大納言クラスが務めた。

天孫降臨(てんそんこうりん)

"天孫"とは天津神の子孫のことを指すが、その中でも特に、伊勢神宮に祀られている太陽神、天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫にあたる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)のことを指し、その直系の子孫は天皇につながる。

天台本覚論(てんだいほんがくろん)

中世に盛行した天台宗独自の考え方。
「人は誰もが生まれながらにして仏性を持っている」とする「本覚」の概念を発展させ、「人はだれもが生まれながらにして仏性を持っていて、既に悟った存在なのだから特別な修道などは必要ない」とした。

この考え方は最終的に生物や植物はもとより、非生物のものまですべてが仏性を持ち、成仏が叶うという論になり、最終的には現象世界のいっさいを無差別に肯定する考え方へと発展していった。

(とう)

仏舎利をおさめた心礎の上に心柱を建てたもので、古くは伽藍の主な建物だった。
七重塔、五重塔、三重塔、多宝塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)など、種類は多岐にわたる。

堂宇(どうう)

寺院建築のこと。

登極令(とうきょくれい)

明治42年(1909)に公布された、大日本帝国憲法期の「旧皇室典範」における天皇の践祚、即位礼、大嘗祭の執行に関することを規定した基本事項。

道諦(どうたい)

苦しみのメカニズムを示す四聖諦(ししょうたい)の一つ。

思い通りにならないという苦(苦諦)は、正しい道を歩み、身心を整えることで解体できるというもの。
「道諦」と「滅諦」は苦を解体する実践方法を示す。

得度(とくど)

出家して仏門に入ること。

古代、律令制度下においては、まずは治部省(玄蕃寮)に申請する必要があった。
治部省は民部省で出家する者の戸籍を照合し、一般戸籍から除去。その後、一般戸籍から除籍し、玄蕃寮で僧尼名簿に記載された。

ただし、得度した段階ではまだ正式な官僧にはなっておらず、まずは見習いとなる。
得度した僧は、研鑽を積んだあと、試験に合格すれば受戒を受け、晴れて正式な官僧となれる。

逆に、官の許可なく僧となるものは私度と呼ばれ、基本的には禁じられていた。

止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)

豊受大神宮に関する儀式・行事が記されている。
第50代桓武天皇の命で、延暦23年(804年)、禰宜の五月麻呂らが作成。
神宮の規模を忠実に伝えた根本史料。

皇太神宮儀式帳と合わせて延暦儀式帳(又は「伊勢大神宮儀式帳」)という。

豊明節会(とよあかりのせちえ)

新嘗祭の翌日に行われる宮中儀式。
豊楽殿において天皇が新穀を食し、群臣に膳をもてなす宴。
直会(なおらい)的要素が強い。


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