三十三間堂 入口

後白河法皇が平清盛に命じて創建された三十三間堂。
「三十三間堂」という名前は有名ですが、それは通称で、正式名称は「蓮華王院」です。

お堂は南北に118メートル、ものすごく横長です。
その柱の間の数が33あることから三十三間堂と呼ばれるようになりました。

現在は、三十三間堂のすぐ近く、東山七条にある妙法院が管理しています。

堂内には、3.4メートルもの大きなご本尊、千手観音坐像(国宝)があり、その左右をそれぞれ500体ずつの千体千手観音像が並んでいます。
ご本尊も合わせて1001体もの観音像が並ぶ様子は合計1001体もの仏像が並んでいます!
ずらっと仏像が並ぶその様子は圧巻です^^

堂内は撮影禁止なので、代わりにJR東海の「そうだ!京都へ行こう」のCMを貼りました^^

CMもすごいですが、やはり本物を見るとやっぱり迫力が違いますからぜひ本物を見るのをオススメします^^
また、千体千手観音像の手前には風神・雷神・木造二十八部衆立像が並んでいて、全てが国宝に指定されています。
三十三間堂に来るだけで、たくさんの国宝に出会えます。

三十三間堂の創建由来

蓮華王院 三十三間堂

三十三間堂は、後白河法皇が平清盛に命じて作られたのですが、なぜ作らせたのか?その理由は色々な説があります。

まず一つは、後白河法皇の頭痛の悩みに関係する説。

それは今熊野観音寺のところで説明していますが、後白河法皇の頭痛は、前世に関係していました。

深く信奉していた熊野権現に頭痛平癒を祈ると、前世に関係していることを示してもらったんです。

それによると、後白河法皇の前世は「蓮華坊」という僧侶で、蓮華坊の頭蓋骨が岩田川に沈んでおり、その目穴から柳が生えて、風が吹くと頭蓋骨が動くので頭が痛むのだということがわかりました。

早速川を調べたところ、お告げ通りに頭蓋骨があったので、それを現在の三十三間堂の場所に納め、生えていた柳の木をお堂の梁に使ったところ、頭痛が治ったそうです^^

今はお堂は1つですが、当初は五重の搭や不動堂もあって、威厳のある堂々とした様子だったようです。
造営費は平清盛が負担しているわけですが、平家の財力は当時絶大なもの。
それがどれほどのものだったのかは、やはりこれだけの観音像な並んでいるのを見れば、誰の目にもわかるでしょう。

それだけの数の観音像を安置するお堂は、現在でも木造建築世界一の長さを誇っています。

蓮華王院 三十三間堂

上の写真を見ても長いですが、これでもまだ半分。
とても全体は撮れません^^;

お堂には柱と柱の間が三十三間もあるのですが、”三十三”という数字は、観音様の慈悲の数にちなんでいます。

三十三間堂が建てられた平安末期は「末法の世」とされ、仏教が廃れていく時代と、はるか昔から言われていた時代でした。
千手観音を千体も立てたのは、その時代の世の中に、救いのないことへの不安があったのかもしれませんね。

三十三間堂は、1つのお寺ではなかった!

三十三間堂は、実はそれだけで1つのお寺というわけではありません。
法住寺殿の一画にある宗教的堂塔の1つなんです。

法住寺殿というのは、後白河法皇が、皇子の二条天皇に譲位して上皇になった時、院政(上皇が天皇に代わって政治を運営すること)を行なった政庁です。

政治的な施設の北殿、宗教的堂塔が集中する南殿に分かれていて、その敷地はこんな風になっていたようです。

法住寺殿略図

南は八条坊門小路、北は六条大路となっていますから、現在の東海道線沿いの大谷高校辺りから、豊国神社の北側辺りでしょうか?

東西は現在の三十三間堂から東大路通りまでとなっています。
三十三間堂と東大路の間の一画は現在、法住寺や後白河天皇陵などがあります。
三十三間堂と合わせてぜひ参拝しておきたいところですね^^

御朱印

三十三間堂の御朱印です。

蓮華王院 三十三間堂 納経印

洛陽三十三所観音霊場の十七番札所でもあります。
オリジナルの朱印帖もありました。

蓮華王院 三十三間堂 御朱印

1冊1,000円でした^^