七福神は七人の神様ですが、神社ではなくお寺でもよく祀られていますよね。
むしろお寺の方が多いような気がします。

私たちは神社では柏手を打って、お寺では手を合わせてお参りをしますが、お寺にいらっしゃる七福神はどのやり方でお参りしたらよいのでしょうか?

そもそもなぜ、お寺に神様が祀られているのでしょう?

そのカギを握るのが「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」です。

「習合」というのは、異なる二つ以上の教えの良いところをピックアップし、再構成するということ。
簡単にいうと、神と仏が合体してパワーアップ、みたいなものです^^

習合の例は、日本だけではありません。
中国や朝鮮半島では日本より先に道教の神と仏が習合していますし、西洋では神と神が習合したりしています。

日本の場合は、飛鳥時代頃に仏教が伝来し、日本古来から信仰されてきた神々と仏が習合したので、神仏習合と呼ばれています。

ただ単に仏像と神像が合体する、というだけのものではありません。

神と仏が習合すると、その教義や思想も変化します。
するとそこから生まれる文化や、芸術、建築物なども変化します。

一度習合すればそれで終わりではなく、歴史の進展の中でも変化・熟成していきますし、地方によって独特の信仰形態になっていくものもありました。

なので、ひとことに神仏習合といっても千差万別で、未だに未解明な部分もたくさんあるんですよね。

でも、少しでも知っていると、そこからその寺社の歩んだ歴史が垣間見えたりして、寺社巡りが楽しくなりますよ^^

神仏習合、例えばどんなものがある?

まずは七福神でおなじみ、弁財天。

弁財天

弁天さまというと、芸能上達と財宝を与えてくれる神様です。
上のように琵琶を抱えたお姿が一般的ですよね。

こちらは宇賀神という神と習合した「宇賀弁財天」です。

宇賀弁財天

普通、神様はシンプルなお姿のものが多いのですが、こちらは腕がたくさんありますね。
それは、密教が関係しているからだと思います。

手に持っているものは琵琶ではなく、剣と宝珠です。
このお姿は、芸能・財宝の神としてのお姿ではなく、仏法守護のお姿です。
日本に仏教が入ってきた時、弁天さんは仏法守護の神様だったのです。

そして写真では見にくいですが、頭には鳥居があり、そこに翁の顔をした宇賀神という蛇の神を乗せています。

こちらが宇賀神。

宇賀神

なぜそのような姿なのか?正体は謎に包まれていますが、宇賀神は農業・食物の神としての信仰がありました。

蛇は米倉を狙うネズミを食べてくれることから農業の守り神とされていたのです。

そして弁天さんは大抵、水のあるところに祀られていますが、それは水の神としての性質もあるからです。
水は農業にとって欠かせないものなので、弁天さんと宇賀神が習合したと考えられます。
(諸説あります)

お次はお稲荷さん。
お稲荷さんは、その姿を現すものはあまりありません。

よく、

お稲荷さん=狐

と勘違いされるのですが、お稲荷さんと呼ばれている神様は、宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)
狐はお稲荷さんの眷属(遣い)なのです。
狐がお稲荷さんに取次ぎをしてくれます。

宇迦之御霊神は、そのお姿を見せないんですね。

でも、習合すると荼枳尼天(だきにてん)となり、仏像化されます。

荼枳尼天

荼枳尼天は元々ヒンドゥー教の「ダーキニー」という、人肉を食らう夜叉でした。
それが仏教に取り入れられて神になったものです。

なんとも怖い存在ですが、荼枳尼天は神通力を持っていて、強い現世利益が得られるとされています。

なぜそれが習合したのか?

共通点は「狐」です。
インドにはジャッカルという動物がいて、ジャッカルは死肉を食らうことからダーキニーはその精霊とされていたのです。

それが仏教に取り入れられたのですが、中国や日本には、ジャッカルはいませんから、それと似たような姿である「狐」と結びつきます。

日本では狐はお稲荷さんという認識ですから、神仏習合したときに荼枳尼天として祀られるようになったわけです。

神仏習合が行われると、このような今までにない神や仏が生み出されてきました。

神仏習合はいつ頃、どこで始まった?

神仏習合はいつ始まったのか?
それははっきりしていません。

文明が栄えた都からではなく、地方で多発的に始まったようなのです。

日本に仏教が伝来したのは6世紀。
その頃の仏は、新しく来た外来の神という扱い。
どちらを信仰するのか?という争いは都を中心にありましたが、この時点で習合することはありませんでした。

お寺があるのもほとんど都の近くばかりでした。

仏教というと、当時は大陸からもたらされた最新の文明です。
その頃、日本ではまだ竪穴式住居に住んでいる人が多かったのですが、そんなところに急に立派な建物が建つわけです。

法隆寺や四天王寺には五重塔もありますから、それはもう驚きますよね^^

都ではそんな最新の文明を急速に取り入れていったのです。

神仏習合がみられるようになったのは、8世紀の奈良時代頃です。
その頃になると、お寺が地方にも普及していました。

時代が新しく変わっていく中、地方の豪族たちはこぞって最新の文明を採り入れたかったわけですね。

ただ、地方には地方で、古くから信仰している土着の神がいます。
伝統的な儀式や行事もあったでしょう。

今まで土着の神が村を守ってくれたのです。

豪族たちは喉から手がでるほど文明を採り入れたいのだけど、今までの信仰を捨てて仏を祀ってよいものなのか・・・
悩ましいところです。

一方で仏教側には、地方にもっと普及したい願望がありました。

そこででてきたのが、神と仏が融合する、神仏習合です。
仏か神か?という二者択一ではなく、仏と神の関係性を明らかにして、どちらも信仰の大将なのだとすれば良いのです。

そこで、いち早く神仏習合が普及していた唐にならって、日本でも土着の神と仏教の習合が始まったのです。

神仏習合の大きな流れ

どのように神仏が習合していくのかは、地方によって、またその状況によって色々なのですが、神仏習合の歴史には大きな流れがあります。

その流れの中で、神や仏の立ち位置が変わり、信仰の形も変化します。

仏教に帰依したい神が現れた「神身離脱説」

神仏習合思想のさきがけとして位置づけられるのが、8世紀ごろに現れた思想「神身離脱説」です。

「神の身を離れたい」と神さまが訴えている、という説なのですが、この説は主に仏教側から生まれました。

仏教では輪廻転生という概念があります。
「この世のあらゆる存在は輪廻を繰り返して苦悩し続ける」というものです。

輪廻し続ける世界を「六道」といって、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の6つの世界があります。
私たちがいる「人道」もそうですが、罪を犯したものが死んだ後に行く「地獄道」も輪廻の世界の一つなのです。

そんな輪廻の世界から脱出(解脱)するのが仏教のゴールでもあります。

六道輪廻

そして輪廻の世界の中には、神様のいる「天道」も含まれています。
天道は快楽に限界のない世界で、六道の中では最上界にあるのですが、それでも老いて死んでいく苦しみからは逃れられません。

神様も人と同じで迷い苦しむ立場。
神もまたつらいのです^^;

疫病を流行らせたり、日照りで不作を引き起こしたりなどの神の祟りは、神の苦しみを表現しているものなのです。

そんな神が仏教の力を頼り、神の身を脱したい・・・
そう願っているというのが神身離脱説です。

この思想から、神を輪廻からの解脱に導くための寺院「神宮寺」が神社のそばに建立されました。
神宮寺では、神前で経典を読む「神前読経」が行われていたのです。

このようにして仏教は、土着の神を否定することなく、むしろ土着の神にとってもなくてはならない存在になっていったわけですね^^

今でも「神願寺」「神護寺」「別当寺」という名前のお寺が全国にありますが、それはかつて神宮寺だったお寺です。

仏法を守る役目を担いたい「護法善神説」

神身離脱説が浸透していくと、今度は「護法善神説」という考えも派生しました。
これは、神も仏法を尊敬していて、その教えと仏教徒を守護したがっている、という思想です。

お寺の入り口の門に立っている金剛力士や四天王などは、バラモン教やヒンドゥー教から仏教に取り入れられた神々。
そこに日本古来の神々も加わっていきます。

御法神となるのは、土着の神であったり、開祖と縁のある神だったり色々ですが、護法神の先駆けとなったのが、大分にある宇佐八幡宮の八幡神です。

僧形八幡神

「僧形八幡神」と名付けられた像で、神様、というイメージではありません。
どこから見ても僧侶ですね。
それには理由があります。

八幡神が護法神になったきっかけは東大寺の大仏建立にあります。
国家予算の3倍もかけて手掛けた超巨大プロジェクトです。

そこに、いち地方の神に過ぎなかった八幡神が託宣(お告げ)によって、大仏建立を手助けしたと「八幡宇佐宮御託宣集」に記録されています。
さらに、大仏が出来上がった際には、宇佐から拝みに行きたい、という託宣も下し、実際に巫女に乗り移って入京しているんですよね。

そのようなこともあって、大仏が開眼された際にはその守り神として「八幡大菩薩」という称号が与えられ、東大寺の近くにある手向山八幡宮で祀られるようになったのです。

なので僧侶のようなお姿は菩薩となった姿。
つまり、仏教に帰依して、自らも修行をしている姿なのです。

このように、神が仏法を守護する護法善神とする考え方に基づいて、お寺の境内に地主の神や、開祖に縁のある神が招かれて、お寺の守護神として仰がれるようになりました。

それが鎮守神です。

東大寺の八幡神のほか、比叡山延暦寺の赤山明神や山王権現、高野山の丹生明神や狩場明神、園城寺の新羅明神、醍醐寺や神護寺の清滝権現、日蓮宗の法華三十番神などが有名ですね。
これらの神は、それぞれの寺院が所有する垂迹曼荼羅に描かれています。
展示されている機会があれば、見てみてください。

鎮守神を祀る鎮守社は、お寺の境内にある場合もあれば、境外に隣接している場合もあります。

例えば、東大寺の鎮守は手向山八幡宮、比叡山の鎮守は日吉大社、高野山の鎮守は丹生都比売神社などです。
こういう神社に行く際は、神仏習合を意識していたら何か面白いものを発見できるかもしれませんね^^

神と仏は同体だった!「本地垂迹説」

10世紀になると、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が成立します。
この、本地垂迹説によって、神仏習合の到達点に達します。

これは、仏こそは神の実の姿「本地」であり、神は仏が衆生を救済するために姿を変えた仮の姿「垂迹」である、という考えです。

つまり

  • 仏(本地)⇒本当の姿
  • 神(垂迹)⇒仮の姿

ということですね。
例えば、伊勢神宮内宮の神、「天照大御神」(あまてらすおおみかみ)の本地は、密教の教主「大日如来」である、と説かれます。
八幡神は阿弥陀如来、春日明神は不空羂索観音(もしくは釈迦如来)、といった風に、有名どころの神々には本地が設定されていきます。

このような本地垂迹説は、かつてこの世に現れて悟りを開いた釈迦とは、実は仮の姿で、本身は永劫の昔から存在していた、という下りが法華経にあることを根拠にしています。
なので、実在する聖人や、託宣を下したりする神とは何なのかを説明するものとして使われるようになりました。

本地垂迹影響を受けていると一番わかりやすいものは「権現」を名乗っている神様でしょう。
密教や修験道と関わりのあるお寺でよく用いられています。

「権」は「仮」という意味で、「権現」は「権(仮)に現れる」という意味になります。

「権現」といえば、有名なのはこちら。

如意輪寺 蔵王権現

蔵王権現です。

蔵王権現の本地はなんと、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の3体もいるのです。

蔵王権現の本拠地、吉野・金峯山寺の本堂に行くと、3体の大きな蔵王権現(普段は秘仏)がいらっしゃいます。

蔵王権現

圧倒されるほどの荒々しく、迫力のある大きさなのですが、これは仮の姿。
本堂の裏には本地堂があって、先ほどの荒々しい姿が収まったかのような静かな空間になっていて、3体の本地がいらっしゃいます。

この意味は、本地垂迹説を知っていないとわからないですね^^

本地垂迹説は仏教側から論じられた概念ですが、これは仏教側が神道よりも優位になるための詭弁なのかというと、必ずしもそうとは言い切れません。
修業の一環として、神の本地を探求することは、この世の背後に潜む物事の本質や究極の真理を探求していくということで、それは悟りを得る道を歩むことに繋がるわけです。

なので、本地垂迹説からたくさんの仏像や仏画、秘儀、秘説が生まれていくことになったわけですね^^


神仏習合についてザっと説明しましたが、この思想は明治政府が神仏分離令を出して、終止符を打つことになります。
なので、現在みられる神仏習合の要素は、かつてのなごりなのです。

日本の神仏習合は、上で説明したことからわかるように、仏教側が優位な方向で説かれてきました。
神道側は教義として決まったものはあまりなく、あいまいだったので、体系的に整えられた仏教にはかなわなかったんですね。

しかしそのような仏教理論の影響を受けて、神道側も思想を確立させていきます。
幕末になると、今まで下位に甘んじられていた神道側から反発が起こり、廃仏論がしきりに唱えられるようになりました。

ついには明治政府によって神仏分離令が施行されます。
神仏分離令は「神」と「仏」をきちんと明確にわけることを目的としていましたが、一部の地域では勘違いが起こり、仏像や宮寺を打ち壊すという「廃仏毀釈」が起こりました。

これによって多くの文化財を失ってしまったのですが、何事もなかった地域や、文化財をうまく非難させた地域もあり、現在も神仏習合の要素を残せている寺社もあるのです。

神社なのにお寺っぽいな~、とか、逆にお寺なのに神社っぽいな~、と感じたら、それは神仏習合の影響を受けているのかもしれません^^