よく、神社とお寺の区別がつかないという方がおられます。
でも、それはおかしなことではありません。
歴史を紐解けば、区別がつかないのも当然の流れなんですよね^^

そのカギを握るのが「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」です。
神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいいます。

神仏習合とは?

日本固有の「神道」と、大陸からきた「仏教」、双方の教えや考え方を融合させること。

そのままだとわかるようでわからないかもしれませんね^^;

まず、「神道(しんとう)」と「仏教」についてですが、「神道」は日本土着の信仰で、自然を崇拝し、その自然の中から神を見出して、その神を信仰します。

それに対して「仏教」は、飛鳥時代にインドから中国、朝鮮半島を経て日本に伝わった信仰です。

神仏習合はこの、「神道」と「仏教」の良い部分や、日本人に馴染みやすい部分をピックアップし、再構成した信仰形態なんです。
例えるなら、外国人と日本人のハーフが生まれたような感じですね^^

神仏習合の思想は8世紀ごろから明治になるまで長く続きました。
それが明治になると政府が「神仏分離令」という、神道と仏教をきちんと分けようという法律を作りましたので、今では神社とお寺は別の存在となっています。

それでも、伝統のある信仰はそう簡単に変えられませんので、今でも神社やお寺に行くと、神仏習合の名残がみられることがあります。

なので、少しでも神仏習合の流れを知っておけば、今参拝している寺社の歩んだ歴史が垣間見えたりして、寺社巡りが楽しくなりますよ^^

神仏習合、例えばどんなものがある?

神仏が習合すると、それぞれの思想や教義、文化が混ざり合い、変化します。
なので信仰に対する考え方が変化するのですが、それに合わせて建物も変化しますし、仏像と神像も合体したりします。

特に像の合体は面白いですよ^^

神仏習合の具体的な例を挙げていきましょう。

お寺の中に鳥居がある

宝山寺 鳥居

上の写真は、奈良県にある宝山寺
不動明王を本尊とする真言宗のお寺です。

そんなお寺の境内、ど真ん中に鳥居があります。

鳥居は、神社の入り口に建っているもので、神域と俗界を区別する結界の役割を果たすもの。
つまり、ここではお寺の中に神社の建物が建っているわけです。

ここでは、歓喜天という神様が祀られています。
右にある建物は、歓喜天を祀る聖天堂。

普通、神様を祀る場所は本殿と呼ばれますが、ここは聖天堂。
建物の造りも、神社にあるような形式ではなく、お寺のお堂に見られる形式です。

つまり歓喜天は、神でありながら、仏のような祀られ方をしているわけです。

このように、お寺の中に神社的な建物がある場合もありますが、逆に神社の中にお堂がある場合もあります。

神社でお経?奉納品の中に見られる神仏習合

大きな神社やお寺には奉納品があります。
その中にも神仏習合の影響がみられるものもあります。

例えば、奈良の春日大社に伝わる春日権現記絵の一場面。

春日権現験記絵 第一巻

春日大社の拝殿前にお坊さんがいます。
これは、神前読経を行っているのです。

神前読経とは、その名の通り、神様の前でお経を読むこと。
普通は神主さんが祝詞を読みますよね。

でも、この現記絵が描かれた時代は、神前読経が普通だったわけです。

お経を読んでいるのは、春日大社のすぐ近くにある興福寺の僧侶。
どちらも藤原氏と関係の深い神社とお寺ですので、神仏習合が進むのも自然の流れですね。

七福神の一人 弁財天の神仏習合

神仏が習合すると、仏像と神像が合体します。

まずは七福神でおなじみ、弁財天。
今は、財宝や芸能上達といったご利益を与えてくれることで知られていますよね。

でも元々は仏教の守護神の一人として、日本に紹介された神様です。

弁財天

上のように琵琶を抱えたお姿が一般的ですよね。

こちらは蛇の姿をした神様、宇賀神と習合した「宇賀弁財天」です。

宇賀弁財天

普通、神様はシンプルなお姿のものが多いのですが、こちらは腕がたくさんありますね。
それは、密教が関係しているからだと思います。

手に持っているものは琵琶ではなく、剣と宝珠。
このお姿は、芸能・財宝の神としてのお姿ではなく、仏法守護のお姿です。
日本に仏教が入ってきた時、弁天さんは仏法守護の神様だったのです。

写真では見にくいですが、頭には鳥居があり、そこに翁の顔をした宇賀神を乗せています。

元々の宇賀神の姿はこちら。

宇賀神

なぜそのような姿なのか?
正体は謎に包まれていますが、宇賀神は農業・食物の神としての信仰がありました。

蛇は米倉を狙うネズミを食べてくれることから農業の守り神とされていたのです。

そして弁天さんは大抵、水のあるところに祀られていますが、それは水の神としての性質もあるからです。
水は農業にとって欠かせないものなので、弁天さんと宇賀神が習合したと考えられます。
(諸説あります)

このように、それぞれの得意分野が似ているも神仏だったり、何らかの共通点があると、「あの神はあの仏と同一じゃないのか?」と考えられ、習合していく傾向があるようです。

商売繁盛 お稲荷さんの神仏習合

お次はお稲荷さん。
お稲荷さんは、全国的に多く祭られていますが、その姿を現す神像はあまりありません。

よく、

お稲荷さん=狐

と勘違いされるのですが、お稲荷さんと呼ばれている神様は、宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)
狐はお稲荷さんの眷属(遣い)なのです。
狐がお稲荷さんに取次ぎをしてくれます。

宇迦之御霊神は、そのお姿を見せないんですね。

でも、習合すると荼枳尼天(だきにてん)となり、仏像化されます。

荼枳尼天

荼枳尼天は元々ヒンドゥー教で「ダーキニー」と呼ばれ、人肉を食らう夜叉でした。
それが仏教に取り入れられて神になったものです。

なんとも怖い存在ですが、荼枳尼天は神通力を持っていて、強い現世利益が得られるとされています。

なぜそれが習合したのか?

共通点は「狐」です。
インドにはジャッカルという動物がいて、ジャッカルは死肉を食らうことからダーキニーはその精霊とされていたのです。

それが仏教に取り入れられたのですが、中国や日本には、ジャッカルはいませんから、それと似たような姿である「狐」と結びつきます。

日本では狐はお稲荷さんという認識ですから、神仏習合したときに荼枳尼天として祀られるようになったわけです。

神仏習合が行われると、このような今までにない神や仏が生み出されてきました。

神仏習合はいつ頃、どこで始まった?

神仏習合はいつ始まったのか?
それははっきりしていません。

一説によると、文明が栄えた都からではなく、地方で多発的に始まったというものがあります。

日本に仏教が伝来したのは6世紀。
その頃の仏は、新しく来た外来の神という扱いでした。

どちらを信仰するのか?の争いが都を中心にありましたが、この時点で習合することはありませんでした。

そして、お寺があるのもほとんど都の近くばかりでした。

当時仏教は大陸からもたらされた最新の文明です。
その頃、日本ではまだ竪穴式住居に住んでいる人が多かったのですが、そんなところに急に立派な建物が建つわけです。

法隆寺や四天王寺には五重塔もありますから、そんな時代にそんな建築物を見たら驚きますよね^^

都ではそんな最新の文明が急速に取り入れられていったのです。

神仏習合がみられるようになったのは、8世紀の奈良時代頃。
その頃になると、お寺が地方にも普及していました。

時代が新しく変わっていく中、地方の豪族たちはこぞって最新の文明を採り入れたかったわけですね。

ただ、地方には地方で、古くから信仰している土着の神がいます。
土着の神は、村を守ってくれる存在です。
神に感謝をささげる伝統的な儀式や行事もあったでしょう。

豪族たちは喉から手がでるほど文明を採り入れたいのですが、今までの信仰を捨てて仏を祀ってよいものなのか・・・
悩ましいところです。

一方で仏教側には、地方にもっと普及したい願望がありました。

そこででてきたのが、神と仏が融合する、神仏習合です。
仏か神か?の二者択一ではなく、仏と神の関係性を明らかにして、どちらも信仰の対象なのだとすれば良いのです。

そこで、いち早く神仏習合が普及していた唐にならって、日本でも土着の神と仏教の習合が始まったのです。

神仏習合の大きな流れ

どのように神仏が習合していくのかは、地方によって、時代によって色々です。

一度習合すればそれで終わりではなく、時代が変われば、神仏習合の形は変化します。
信仰のスタイルにも流行がありますし、時世に応じて信仰に対する解釈が変わることがあるのです。

そうなると、神と仏の関係性が変わったり、地方によって独特の信仰形態になっていくものもありました。

なので、ひとことに神仏習合といっても視点がたくさんあります。
未だに未解明な部分もたくさんあるんですよね。

それでも、神仏習合の歴史には大きな流れがあります。

仏教に帰依したい神が現れた「神身離脱説」

神仏習合思想のさきがけとして位置づけられるのが、8世紀ごろに現れた思想「神身離脱説」です。

神にも悩みがあり「神の身を離れたい」と訴えている、とする説なのですが、この説は主に仏教側から生まれました。

仏教では輪廻転生という概念があります。

「この世のあらゆる存在は輪廻を繰り返して苦悩し続ける」

というものです。

輪廻し続ける世界を「六道」といって、天道・人道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の6つの世界があります。
私たちがいる「人道」もそうですが、罪を犯したものが死んだ後に行く「地獄道」も輪廻の世界の一つなのです。

そんな輪廻の世界から脱出(解脱)するのが仏教のゴールでもあります。

六道輪廻

そして輪廻の世界の中には、神様のいる「天道」も含まれています。
天道は快楽に限界のない世界で、六道の中では最上界にあるのですが、それでも老いて死んでいく苦しみからは逃れられません。

神様も人と同じで迷い苦しむ立場。
神もまたつらいのです^^;

疫病を流行らせたり、日照りで不作を引き起こしたりなどの神の祟りは、神の苦しみを表現しているものなのです。

そんな神が仏教の力を頼り、神の身を脱したい・・・
そう願っているとする説が神身離脱説です。

この思想から、神を輪廻からの解脱に導くための寺院「神宮寺」が神社のそばに建立されました。
神宮寺では、神前で経典を読む「神前読経」が行われていたのです。

このようにして仏教は、土着の神を否定することなく、むしろ土着の神にとってもなくてはならない存在になっていったわけですね^^

今でも「神願寺」「神護寺」「別当寺」のような名前のお寺が全国にありますが、それはかつて神宮寺だったお寺です。

仏法を守る役目を担いたい「護法善神説」

神身離脱説が浸透していくと、今度は「護法善神説」も派生しました。
これは、神も仏法を尊敬していて、その教えである「法」と仏教徒を守護したがっている、という思想です。

今でもお寺の入り口の門に立っている金剛力士や四天王は、元々はバラモン教やヒンドゥー教の神々。
それらの神々は、護法神として仏教に迎え入れられた神々なのです。

そして、日本古来の神々も、護法神として加わっていきます。

日本の神の中で、護法神の先駆けとなったのが、大分にある宇佐八幡宮の八幡神です。

僧形八幡神

上の写真は、「僧形八幡神」と名付けられた像。

神様のイメージではありません。
どこから見ても僧侶ですね。

それには理由があります。

八幡神が護法神になったきっかけは東大寺の大仏建立にあります。
国家予算の3倍もかけて手掛けた超巨大プロジェクトです。

そこに、いち地方の神に過ぎなかった八幡神が託宣(お告げ)によって、大仏建立を手助けしたと「八幡宇佐宮御託宣集」に記録されています。
さらに、大仏が出来上がった際には、宇佐から拝みに行きたい、という託宣も下し、実際に巫女に乗り移って入京しているんですよね。

そのようなこともあって、大仏が開眼された際にはその守り神として「八幡大菩薩」という称号が与えられ、東大寺の近くにある手向山八幡宮で祀られるようになったのです。

なので僧侶のようなお姿は菩薩となった姿を表しています。
つまり、仏教に帰依して、自らも修行をしている姿というわけです。

このように、護法善神説に基づいて、お寺の境内にする前からいた土着の神や、お寺の開祖に縁のある神が招かれて、お寺の守護神として仰がれるようになりました。

それが鎮守神と呼ばれるようになります。

東大寺の八幡神のほか、比叡山延暦寺の赤山明神や山王権現、高野山の丹生明神や狩場明神、園城寺の新羅明神、醍醐寺や神護寺の清滝権現、日蓮宗の法華三十番神などが有名ですね。
これらの神は、それぞれの寺院が所有する垂迹曼荼羅に描かれています。
展示されている機会があれば、見てみてください。

鎮守神を祀る鎮守社は、お寺の境内にある場合もあれば、境外に隣接している場合もあります。

例えば、東大寺の鎮守は手向山八幡宮、比叡山の鎮守は日吉大社、高野山の鎮守は丹生都比売神社などです。
こういう神社に行く際は、神仏習合を意識していたら何か面白いものを発見できるかもしれませんね^^

神と仏は同体だった!「本地垂迹説」

10世紀になると、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が成立します。
この、本地垂迹説によって、神仏習合の到達点に達します。

これは、仏こそは神の実の姿「本地」であり、神は仏が衆生を救済するために姿を変えた仮の姿「垂迹」である、という考えです。

つまり

  • 仏(本地)⇒本当の姿
  • 神(垂迹)⇒仮の姿

ということですね。
例えば、伊勢神宮内宮の神、「天照大御神」(あまてらすおおみかみ)の本地は、密教の教主「大日如来」である、と説かれます。
八幡神は阿弥陀如来、春日明神は不空羂索観音(もしくは釈迦如来)、といった風に、有名どころの神々には本地が設定されていきます。

このような本地垂迹説は、かつてこの世に現れて悟りを開いた釈迦とは、実は仮の姿で、本身は永劫の昔から存在していた、という下りが法華経にあることを根拠にしています。
なので、実在する聖人や、託宣を下したりする神とは何なのかを説明するものとして使われるようになりました。

本地垂迹影響を受けていると一番わかりやすいものは「権現」を名乗っている神様でしょう。
密教や修験道と関わりのあるお寺でよく用いられています。

「権」は「仮」という意味で、「権現」は「権(仮)に現れる」という意味になります。

「権現」といえば、有名なのはこちら。

如意輪寺 蔵王権現

蔵王権現です。

蔵王権現の本地はなんと、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の3体もいるのです。

蔵王権現の本拠地、吉野・金峯山寺の本堂に行くと、3体の大きな蔵王権現(普段は秘仏)がいらっしゃいます。

蔵王権現

圧倒されるほどの荒々しく、迫力のある大きさなのですが、これは仮の姿。
本堂の裏には本地堂があって、先ほどの荒々しい姿が収まったかのような静かな空間になっていて、3体の本地がいらっしゃいます。

この意味は、本地垂迹説を知っていないとわからないですね^^

本地垂迹説は仏教側から論じられた概念ですが、これは仏教側が神道よりも優位になるための詭弁なのかというと、必ずしもそうとは言い切れません。
修業の一環として、神の本地を探求することは、この世の背後に潜む物事の本質や究極の真理を探求していくことで、それは悟りを得る道を歩むことに繋がるわけです。

なので、本地垂迹説からたくさんの仏像や仏画、秘儀、秘説が生まれていくことになったわけですね^^


神仏習合についてザっと説明しましたが、この思想は明治政府が神仏分離令を出して、終止符を打つことになります。
なので、現在みられる神仏習合の要素は、かつてのなごりなのです。

日本の神仏習合は、上で説明したことからわかるように、仏教側が優位な方向で説かれてきました。
神道側は教義として決まったものはあまりなく、あいまいだったので、体系的に整えられた仏教にはかなわなかったんですね。

しかしそのような仏教理論の影響を受けて、神道側も思想を確立させていきます。
幕末になると、今まで下位に甘んじられていた神道側から反発が起こり、廃仏論がしきりに唱えられるようになりました。

ついには明治政府によって神仏分離令が施行されます。
神仏分離令は「神」と「仏」をきちんと明確にわけることを目的としていましたが、一部の地域では勘違いが起こり、仏像や宮寺を打ち壊す「廃仏毀釈」が起こりました。

これによって多くの文化財を失ってしまったのですが、何事もなかった地域や、文化財をうまく非難させた地域もあり、現在も神仏習合の要素を残せている寺社もあるのです。

神社なのにお寺っぽいな~、とか、逆にお寺なのに神社っぽいな~、と感じたら、それは神仏習合の影響を受けているのかもしれません^^