忍性ー救済に捧げた生涯ー

奈良国立博物館で、「忍性」生誕800年を記念して開催されている特別展「忍性ー救済に捧げた生涯ー」を見に行きました。

といっても、おそらく「忍性」を知っている人は少ないと思います。
ちょっとマニアックかもしれませんね^^;

良観房忍性は鎌倉時代に活躍した律宗の僧で、一言で表すなら「救済の僧」です。

命を賭して貧しい者や病人、牛馬に至るまで、社会の底辺で救済に生涯を捧げたという名僧なんです。
その慈愛に満ちた活躍ぶりには、後醍醐天皇が「菩薩」号を贈ったほどなんですね。
もっと世に知られても良い存在なのです。

2017年は忍性の生誕800年を記念する年。
今回の展覧会は、忍性に関する最大規模の展覧会で、忍性の一生を追うような構成になっています。
忍性のことを学ぶならうってつけの展覧会ですね。

こちらが展覧会のリーフレット。

忍性

そして今年の10月には「忍性」の映画を公開が予定されています。
こちらは映画の予告です。

もしかして今年は忍性がもっと世に知れる幕開けの年なのかもしれません^^

ちょっと長くなりますが、忍性がどんな人なのか紹介します。

忍性ってどんな人?

忍性のお顔は、頭のとがり具合や赤みを帯びた団子鼻が特徴だといいます。
リーフレットに載っている僧像は、神奈川県極楽寺に伝わる忍性の像。
とても優しさに満ちた表情をしていますね^^

リーフレットの左の方に、

「建てた伽藍83か所、供養した御堂154か所・・・掘った井戸33か所・・・雨ごい祈祷数知れず」

と、まるで餃子の王将のCMのように、行った功績が並んでいます^^
社会活動や弱者救済に多くの力を注いでいるんですね。
歩けない物乞いやハンセン病の患者、囚人や捨てられた牛馬に至るまで救済しました。

そういう行為から師匠である叡尊からは「慈悲ガ過ギタ」と言われたり、日蓮からは偽善者扱いされたりもしたんです。

なぜそのような救済活動に重きを置くようになったのか?
リーフレットに

「すべては、母からはじまった。」

と書いている通り、忍性の生い立ちが関係しています。
救済活動に力を注ぐようになった経緯をざっと説明します。

大和国城下郡屏風里(現在の奈良県磯城郡三宅町)で生まれた忍性は、病弱だった母の影響で文殊信仰に目覚めていました。
幼少より母に信貴山によく連れられていて、そこで祀られている文殊菩薩に深く帰依していたのです。

そして僧となるきっかけになったのが16歳の頃。
病弱だった母が亡くなったのです。

母は忍性に出家を望んでいたこともあって、忍性は大和国の額安寺で出家し、翌年東大寺戒壇院で受戒、今でいう国家公務員ともいえる、国から認められた僧侶「官僧」になります。
そして24歳で西大寺の叡尊の下で真言密教や律を学びます。

叡尊は律宗中興の祖で、荒廃していた西大寺を真言律宗のお寺として復興させ、戒律の復興に邁進していた名僧です。

「戒律」というのは、簡単にいうと釈迦の教えのこと。
その中で「戒」は僧侶になるための約束事で、肉を食べない、酒を飲まない、折衝をしない、女性と交わらない、その他生活面の決まりがあるのですが、鎌倉時代は戒律を守らないお坊さんが多くなっていたのです。
そのような状態では仏教が衰えると危惧していた叡尊は、戒律を学ぶ場を整え、非人、乞食にまで授戒できるようにしたり、社会活動に力を注いでいました。

その影響を受けて忍性も戒律を重要視して忠実に守り、自分の信仰の中心としていくようになります。

また忍性は、叡尊の勧めもあって官僧という立場を捨て、西大寺で再び授戒します。
そうすることで、自由な立場で活躍できる僧侶となったのです。

その時期から忍性は慈善救済活動を本格的に進め、誰もやらなかった究極の救済の道へと向かうようになります。

後半生は、活動拠点を鎌倉に移し、より大規模に戒律復興と救済活動を展開しました。

後に叡尊は、

「忍性は自分の弟子で、自分が興した戒律の復興と民衆の救済の仏教をそのまま受け継いでいるが、忍性は自分と比べて「慈悲ニ過ギタ」奴だ。」

と言っています。

叡尊自体が慈悲の権化であると評価されているのですが、そんな叡尊から見ても忍性はさらに慈悲においては自分よりもはるかに慈悲深い人物であると、人々を救済する活動は自分より忍性の方が上回っているのだと評価しているわけですね。

忍性の思想に影響を与えた先人や仏さま

忍性が救済活動をするにあたって、おそらくモデルにしたであろうと考えられるのが、文殊菩薩、鑑真、行基、聖徳太子。
いずれも「救済」というキーワードが共通する先人や菩薩様ですね。

信仰の原点となった文殊菩薩

文殊菩薩
※ 特別展で購入したポストカードより

忍性の信仰の原点である文殊菩薩は現在では「智慧の神様」として有名ですが、当時は違う信仰を集めていました。

それは、社会的な弱者、病気や身体障碍者などを救うため、文殊菩薩が貧しい人の姿に身を変えて、我々の世界へ現れて直接救済するということ。

そんな文殊信仰が、特に奈良時代から平安時代にかけて広い範囲で広がっていたんです。
病弱だった母の死をきっかけに僧となった忍性ですが、母を救えなかった自責の念もあったのかもしれません。

忍性は、誰も近づこうとしなかったハンセン病患者の救済に特に力を入れました。
この時代、前世でよくないことをした人が、その罰として患う不治の病だと信じられていたんです。

物乞いに出たくても病気で動けないハンセン病患者を、雨の日も風の日も毎日背負って送り迎えをしたという献身ぶり。
更には患者を保護・治療するために忍性が建てたという病棟(北山十八間戸)を建てたのです。

当時、ハンセン病患者は文殊菩薩の化身であると考えられていました。
忍性としては、信仰している文殊菩薩がまるで試しているように感じたのかもしれませんね^^;

唐から戒律を伝えにきた鑑真

次に、戒律を伝えるために渡来した鑑真和上

鑑真は、唐から日本に来るまでに何度も遭難し、自らも失明してしまうほど大変な思いをして日本にたどり着きました。
それも、日本に戒律を伝えるためという救済活動にもつながるのですが、戒律を重視していた忍性としては、鑑真は神様のような存在だったでしょうね。

実際、鑑真が日本に来るまでの苦労の道のりの様子を絵巻化した東征伝絵巻の制作を、忍性が発願しています。
今回の展覧会では、その東征伝絵巻を史上初全五巻全場面公開するという貴重な機会でもあるんです。

外国からやってきた、といえば、文殊菩薩も同じですね。
奈良県桜井市にある安倍文殊院は文殊信仰の原点といわれていますが、そのお姿は、獅子に乗って四人の付き添いがつく、というお姿。

「渡海文殊」と呼ばれています。

文殊菩薩と鑑真は、忍性の中ではイメージが重なっていたのかもしれませんね^^

文殊菩薩の化身 行基

行基が活躍した奈良時代は、官僧でなければ布教活動を禁じられていた時代。
そんな時代に禁を破って、階層を問わず広く仏法の教えを説いて回ったのが行基です。

それこそその活動は忍性と重なるものがあって、道がないところには道を作り、溝やため池、橋の建設などの社会事業や、困窮者のための施設などを作っていたんですね^^

そのような活動家だったので、その当時から「文殊菩薩の化身」と言われ、朝廷からも菩薩の諡号を授けられて「行基菩薩」と呼ばれていました。

忍性は遺言で、自分が死んだ時に遺骨を三か所に分けて埋葬するように指示しているのですが、その一つが行基菩薩の墓がある竹林寺が選ばれています。
(残り二つは、聖徳太子が学びの場として建てたのを始まりとする額安寺、鎌倉の活動の拠点だった極楽寺)

いかに崇拝していたかがわかりますね。

ちなみに今回の展覧会では、三か所に分配された忍性の骨臓器が、713年ぶりに集結しています!

日本で初めて福祉施設を建立した聖徳太子

聖徳太子といえばその功績はたくさんあるのですが、忍性と重なる部分に絞って挙げるなら、日本で初めて福祉施設を作ったことでしょう。
それが、『四天王寺縁起』に示されている「四箇院の制」です。

四箇院というのは、

  • 敬田院(きょうでんいん):寺院そのもの
  • 施薬院(せやくいん):薬局
  • 療病院(りょうびょういん):病院
  • 悲田院(ひでんいん):病者や身寄りのない老人などのための社会福祉施設

のこと。
四天王寺の公式サイトより

こういう偉人が先にいたからこそ、忍性という名僧が生まれたのでしょうね^^


今回は展示品の紹介よりも、忍性についての説明ばかりになってしまいました。
(私のメモという位置づけもあります^^;)

でも展覧会自体が忍性の生涯を追うような構成になっていて、忍性の生涯を描いたアニメーションの上映も行っていました。
これは、奈良国立博物館初の試みなのだとか。
ナレーションにも南こうせつさんを使うという力の入れようです^^

忍性のことをもっと世に広めるというテーマがあったのかもしれませんね。