青岸渡寺

熊野の地は、自然信仰、観音信仰、補陀落信仰、修験道と、複雑に入り混じった独特の信仰形態を取っていて、貴族から庶民まで訪れ、それが熊野信仰として発展します。
那智山は、本宮新宮と並び、熊野信仰の中心地のひとつです。

その中で、那智山の信仰の中心地、熊野那智大社のすぐお隣にあるのが青岸渡寺(せいがんとじ)です。

那智大社に参拝に行くと、社務所の隣からすぐ青岸渡寺の本堂に行けるので、神社からお寺になっているのに気づかずにお参りしている人も少なくないでしょうね^^

青岸渡寺の創建は日本に仏教が公に伝わる頃よりも古い、仁徳天皇の時代。

インドから熊野に漂着した裸形上人が那智に入り、神秘的な風情からこの場所を霊場と定めて修行をしました。
裸形上人が那智の大滝で修行をしていると、滝壺から八寸ほどの大きさの黄金仏が現れたそうです。
それで草庵を建ててお祀りしたのが青岸渡寺の始まりです。

今では、西国三十三所観音巡礼の第一番札所にも指定されており、今でもたくさんの巡礼者が途切れなく訪れます。

そんな青岸渡寺を参拝しました。

「青岸渡寺」の名前の由来

「青岸渡寺」という名前は他にはない特徴的な名前ですよね。
でも昔はそのように呼ばれておらず、「如意輪堂」と呼ばれていました。
「青岸渡寺」と呼ばれるようになったのは、明治になってからなんです。

かつて裸形上人が感得した黄金仏、というのは「如意輪観音」でした。
「如意輪堂」と呼ばれていたのはここからきているんですね。

現在の御本尊も如意輪観音で、本堂前にも「如意輪観世音菩薩」と書かれた旗がいくつか立てられています。

青岸渡寺 如意輪堂

裸形上人の時代から推古天皇の時代になって、大和の生仏上人がこの地にやってきました。
滝の美しさに感動した生仏上人がここに籠って100日間の修行をしていると、満願の夜に裸形上人が夢で現れました。

「私は昔、ここの滝で修行をしていた者だが、その時に私が感得した如意輪観音像が石びつに安置している。それを祀って人々を救いなさい。」

と言って消えたのです。
生仏上人は、その夢告通りに堂を建立し、如意輪観音像を作って裸形上人の感得した黄金仏をその胸中におさめて本尊としました。

そのような経緯から、長らく「如意輪堂」と親しまれてきましたが、それが現在の「青岸渡寺」という名前になったのは、明治になってからのことです。

明治維新までは那智の滝を中心にした神仏習合の一大修験道場で、最盛期には七寺三十六坊を数える大寺でした。
しかし明治政府が出した神仏分離令で、神と仏が一体化した神仏習合状態から、神なのか仏なのか、はっきりさせなければならなくなったのです。

それまで本宮にも新宮にも寺院があったのですが、熊野三山はその際に神を選び、仏像や仏具を廃棄し、坊舎を取り壊す廃仏毀釈を行いました。
那智もそのようにしたのですが、西国三十三所の霊場ということもあり、お堂の取り壊しは免れたものの、お堂がある場所は神社の境内。

仏教色があるものが残っていてはいけませんから、仏像や仏具などは山麓にある補陀洛山寺に預けられます。
このようにしてお堂は残ったものの空堂となってほぼ廃寺状態になってしまったのです。

しかし信者はこれではいけないと復興を願い、明治7年に天台宗の寺院「青岸渡寺」として那智大社から独立、復興することができました。

「青岸渡寺」という名前の由来は、現在高野山 金剛峯寺としている高野山の本坊、青巌寺(せいがんじ)から由来しているといいます。

青巌寺は豊臣家ゆかりの寺院ですし、青岸渡寺の本堂は、織田信長の焼き打ちにあった後に秀吉によって再建されたもので、こちらも豊臣家に縁のある寺院です。

そのような縁があったからか、青巌寺のお坊さんがやって来た時に、おそらく「青巌寺」という寺名をヒントにお寺の名前を付けることになったのでしょう。

その際、那智は海が近いこともあり、「巌」は「岸」に変えることができます。
そして開山の裸形上人は、遠い海から青い岸の熊野まで渡ってきた僧侶。
そこから「青岸渡寺」としたわけです。

「青岸渡寺」の名前の由来はこのようになっていますが、私はもう一つ意味を含んでいるように思えます。

それは、はるか南の彼方にある、観音様がいらっしゃる浄土の世界補陀落浄土への憧れです。

補陀洛山寺では補陀落信仰が盛んで、そこでは補陀落渡海が行われたのですが、それだけこの地では補陀落浄土が意識され、補陀落浄土に近い地とされてきたわけです。
そのような、補陀落浄土へ思いを馳せた信者が「青岸渡寺」という名前を付けたのかもしれませんね^^

補陀落信仰に関しては、こちらに書きました。

青岸渡寺は西国三十三所 一番札所の名刹

青岸渡寺 眺め

西国三十三所観音巡礼の札所は歴史あるお寺ばかりですが、その中でも青岸渡寺は一番札所に指定されています。
「一番」というのはなんだか重みを感じますね^^

西国三十三所観音巡礼は千年以上の古い歴史があって、長谷寺の徳道上人が開創の祖なのですが、それをメジャーにしたのは、徳道上人の時代から約270年後で平安時代中期の天皇、花山(かざん)天皇です。

詳しくはこちら⇒西国三十三所観音霊場とは?

実は開祖の徳道上人の時代は、現在八番札所になっている長谷寺が一番札所だったといいます。
徳道上人のいたお寺ですから、その流れは当然ですよね^^

それから花山天皇が中興する際に、順路が変わります。

退位して法皇となった花山法皇が那智滝の上で千日間の修行をしていた時、熊野権現が現れて西国三十三所観音巡礼を広めるように託宣を受けたのです。

それから花山法皇は西国巡礼の復興に力を注ぐのですが、その時代は熊野詣が盛んでした。
熊野にはそのような影響力があったので、ここが一番札所になったのかもしれません^^

青岸渡寺 本堂のすぐそば、三重塔から滝を眺めてみる

青岸渡寺の本堂から後方に歩いて行くと、見事に自然と調和した三重塔があります。

青岸渡寺 三重塔

内部には、那智の滝の神様である飛瀧権現(ひろうごんげん)の本地仏である千手観音をはじめ、阿弥陀如来、不動明王が祀られていて、壁画や天井には仏画や熊野極楽曼荼羅などが描かれています。

この塔は那智の滝と並んでものすごく目立つのですが、目立つだけあって、ここから那智の滝を眺められる展望台になっています。

滝の近くには麓の飛瀧神社からいけますが、高いところから滝つぼまで見えるのはここだけです^^

青岸渡寺 三重塔

滝つぼのところと、真ん中から下のあたりには虹が出来ていますが、この虹は遠くからじゃないと見えないんですよね^^
ただ、遠すぎるとそれも見えないので、遠すぎず近すぎず、程よい場所がこの三重塔の展望台です。

写真で見るより絶対本物を見た方が良いと思いますので、那智に行かれる方はぜひ寄ってみて下さい。
現在、拝観時間は8:00~16:00、拝観料は大人(高校生以上)200円、小中学生100円になっています。

青岸渡寺の御朱印

西国三十三観音霊場 第一番札所の御朱印です。

青岸渡寺 御朱印

青岸渡寺の御詠歌です。

青岸渡寺 御詠歌

補陀洛(ふだらく)や 岸うつ波は 三熊野の 那智の御山に ひびく滝津瀬」

と書かれています。