根来寺

紀ノ川の下流域、和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山、根来寺(ねごろじ)

根路寺は1130年(平安時代後期)に開かれたお寺で、最盛期を迎える戦国時代の頃には数百の堂宇が立ち並び、その周りには村落ができ、ひとつの経済都市呼べるほどの規模があった大寺院です。

根来寺の僧兵は根来衆と呼ばれ、その数はなんと1万人余り!
更には鉄砲まで所有していたのです。
もはや1国に匹敵する規模ですね^^

それで戦国大名とも互角に戦ったのですが、秀吉の根来攻めによって戦火に包まれたことがよく知られています。

これだけを聞くとなんとも荒々しいお寺のようなイメージがありますよね^^;
でも、それは戦乱の世に対抗するための姿で、そもそもは真言宗三大学山の一つとされるほどの学問のお寺で、その地位を築いてきました。

そのことからお寺の周りに人が集まり、町が栄えて勢力も強大にいったというわけです。

根来攻めで大ダメージを受けましたが、今でも広大な寺領を持っていて、かつての繁栄の名残を垣間見ることができます。

高野山との関係が深いお寺なので、根来寺の歴史を紐解くと、高野山の別の側面が見えるお寺でもあります。

根来寺は大寺院だった!経済力の象徴、大門

根来寺には大きな駐車場があって、車を止めるとすぐに入山料を支払う受付所があるのですが、境内は有料のところだけではありません。
その近辺も境内で、塔頭寺院(子院)や鎮守社などがあるんですね。

その中でも見逃せないスポットが大門です。

根来寺 大門

下を通っている人を見ればわかるのですが、大変立派な楼門建築。
大寺院でしか見れないような大きさですね^^

根来寺は、イエズス会宣教師を通じてヨーロッパにもその名が伝わるほど巨大寺院でした。
学山として有名なだけでなく、物資の輸送にも便利な紀ノ川を下ったところにあるので、栄える理由が備わっていたわけです。

僧侶は、戒によって境内では生産活動を行わないことになっていましたから、その生活物資は、近隣の村落から調達することになります。
宣教師 ルイス・フロイスによると、根来寺には1,500以上のの寺院があったそうですから、当然ながらその人数は相当な数に上ります。
近隣は栄えることが予想できますね^^

大門の2階には大きく「根来山」と書かれ、その威厳を示しています。

根来寺 大門

左右に立つ仁王像。

根来寺 仁王像 根来寺 仁王像

大門の横には、不動明王も座っていました。

根来寺 大門 不動明王

これだけ立派な門ですが、現在は車道が横にあって、今ではかつての遺構となっている感じです。

遺構にしてしまったのは、天下統一を果たした秀吉の紀州攻め
紀州には、根来衆の他にも雑賀衆や高野山、粉河衆など、いかにも惣国一揆を起こしそうな寺社勢力が入り乱れていたんですね。

根来寺は、紀州のみならず、和泉や河内、大和などの一部にもその勢力を及ぼしていました。
秀吉は、その利権を認めず、没収しようとしたのです。

もちろん、根来寺は反発します。
こうして根来攻めが始まったんですね。

紀州では大きな勢力の一つである根来寺も、さすがに秀吉の勢力には敵いませんでした。

当時の繁栄ぶりがそのまま残っていたらどんなに凄かったのか、この門を見て想像するしかありませんね^^;

大門のところに行くには、ひとつ注意点があります。

根来寺には大きな駐車場があって、すぐ横に入山受付があります。
そして大門はそこにはないのです。

大門は、根来寺の駐車場から車で1分くらいのところにあるんです。

大門の横に道路が走っていて、気付かなければスルーしてしまう可能性も・・・
また、大門の横を通らずに駐車場までこれる道もあるので、存在に気付かない場合もあります。

ちょっとだけ離れたところですが、忘れずにチェックしたいところですね。
根来寺の駐車場から歩いてもそれほど遠くはありませんが、門の前にも数台くらい車を停められるスペースがありますよ^^

真言密教の正統のかたちを復興させた、興教大師 覚鑁

根来寺の境内の広さはなんと、350万平方メートル!
今でもかなりの広さの寺領です。

下の写真は、入山受付から入ってすぐの参道ですが、きれいにされていますね。

根来寺 参道

ゆるやかな階段になっている参道を進むと、ちょっと変わった鐘楼門が現れます。

根来寺 鐘楼門

鐘楼門をくぐって真正面にあるのが光明殿(光明真言殿)です。

根来寺 光明殿

ここには、根来寺の開祖である興教大師覚鑁(かくばん)上人の尊像が中央に安置されています。

左右には歴代藩主・座主の位牌を始め信徒の位牌が祀られ、日夜回向を行っているお堂です。

根来寺のことをよく知るためには、この「覚鑁上人」を知ることがかかせません!
なので、覚鑁上人のことを少し解説します^^

覚鑁上人は、空海が入定して約300年ほど後に現れた高僧で、「真言宗中興の祖」ともいわれ、空海以来の才能の持ち主とも名高かった学僧でした。
仁和寺出身の僧で、そこで密教を学びながら奈良の興福寺や東大寺に留学して南都仏教を学んだり、天台の教えを学んだりして幅広い知識を持っていました。
なので、当時の権力者であった鳥羽上皇も篤く帰依していたんです。

一方で、その時代の高野山は、カリスマ空海がいなくなってしまってからは徐々に堕落の道をたどっていました。
空海に続くカリスマが出ないことだけでなく、都から遠いということや、さらには落雷による伽藍の焼失という不運もあって、なかなか繁栄しなかったんですね。
その衰えぶりは京都の東寺の末寺になってしまうほどでした。

しかし11世紀に入ると、国家安泰を願う天皇家と摂関家が高野詣を行うようになり、再び高野山に注目が集まるようになります。
そういう時代に現れたのが覚鑁上人です。

覚鑁上人は、荒廃していた高野山の信仰を建て直すため、鳥羽上皇に開基(スポンサー)となってもらい、現在の金剛峯寺本坊あたりに伝法院を開創します。
これによって、経済上のゆきずまりで廃絶していた真言宗の伝法会(仏教の学びの場)の再興を図ったのです。

実はこの伝法院の歴史こそが根来寺の歴史なんです。

伝法会は春秋二季 行われました。
春の「修学会」では法門など教理的なことの談義を行い、秋の「練学会」では春に学んだ経論のあやまりをただす実践修行の談義を行っていました。

これが大成功を収めて学徒が増えたため、新しく大伝法院を建てることになり、さらに自坊であるとともに既に学問を終えた僧侶の修行所密厳院も建てました。

また、大伝法院の開山と同時に、地元の人々から帰依をうける機会も増えたことから、信仰に答えるために葛城山系の山麓に「豊福寺」などの大伝法院の末寺も建立します。
(これが後に根来寺になります。)

覚鑁上人はこのように、名声をあげながら復興の道を歩き続けるのですが、それをおもしろく思わないものたちも現れるようになります。
金剛峯寺側の僧です。

覚鑁上人は、院宣(上皇や法皇の命で発行した文書)によって大伝法院の座主と金剛峯寺の座主を兼任することを命じられるのですが、金剛峯寺の座主職についたことがきっかけで、金剛峯寺側と対立するようになったのです。

覚鑁上人は仁和寺出身の僧なのですが、当時、仁和寺は真言宗寺院の中で王族関係が多く入寺していて、金剛峯寺の上位寺院、という位置付けでした。
金剛峯寺側の立場としては、上位寺院の支配を受けないことを望んでいたので、覚鑁上人が座主職につくことを望まなかったのでしょうね。

ついには覚鑁上人は、反対派の襲撃にあって密厳院を焼き払われ、高野山上から追放されてしまいます。
そして根来寺に移ってきたのです。

しかしその3年後、覚鑁上人は49歳の若さで遷化(亡くなること)してしまいます。
境内には、奥の院になっている覚鑁上人の御廟(お墓)がありました。

根来寺 興行大師 御廟所

根来寺 奥の院

御廟に向かう道には檀家さんのお墓が並んでいましたが、覚鑁上人の御廟に入るところだけ背の高い雑木林が両サイドに現れます。

ここに入ったとたん、空気が新鮮になりますし、人工的な音が排除され、荘厳さが醸しだされていました。
お墓なのになんだか気持ち良い空間でしたよ^^

密教なのに極楽浄土?覚鑁上人の独自の教義

根来寺 光明殿

上の写真は、先ほど紹介した光明殿です。
お堂の扁額には「密厳堂」の文字があります。

根来寺 密厳堂

かつて、覚鑁上人が住まいにされていたお堂が「密厳院」でしたから、まるで覚鑁上人がここにおられるような感じがしますね^^
光明殿の西側には、浄土をイメージしているかのような「聖天池」という池があります。

根来寺 聖天池

正面から見てもきれいです。

根来寺 聖天池

西側の浄土、といえば阿弥陀如来の「極楽浄土」ですが、そもそもこれは密教の思想ではありません。
実は覚鑁上人は、密教に浄土思想を融合した人物でもあります。

十世紀の終わり頃(平安中期)、「往生要集」で有名な「源信」という僧が登場し、浄土思想を説きました。

源信についてはこちら⇒聖衆来迎寺の虫干し 六道絵を拝観しました

それ以来、既成宗派はそれと対決がさけられない状態だったのですが、覚鑁上人は

「阿弥陀如来は大日如来と同体である」

といって、その思想を真言密教の教理体系に入れたのです。

どういうことか?

まず密教では、如来や菩薩、明王、天など多数の尊格がいらっしゃいます。
それはすべて大日如来から派生した尊格です。
なので阿弥陀如来も、大日如来から派生しているということですね^^

このような独自の教えは他にもありますが、そういうところから覚鑁上人の教えは新義真言宗と呼ばれているようです。

根来寺の中心地、大塔と大伝法堂

覚鑁上人が亡くなった後、覚鑁の教えを継いだ弟子たちは一旦高野山上に戻りますが、既に生まれてしまった確執はそう簡単に修復できず、大伝法院の機能を全面的に根来寺に移転することを決めます。

その弟子たちによって根来寺内に復興された重要なお堂が、大伝法院と大塔です。

根来寺 大塔

この広がりのある空間で見るときれいですね^^
残念ながら空が曇りがちだったので、天気の良い日にいけたら、もっときれいだったかもしれません。

手前の大塔は、正確には大毘廬遮那法界体性塔(だいびるしゃなほっかいたいしょうとう)といって、高さ40メートルもある日本最大の木造の大塔で、国宝指定されています。
いかにも国宝という風格がありますね^^

この塔は、真言密教の教義を形の上で示したもので、根来寺全山の宗教的な真髄となっています。
高野山の壇上伽藍ほど派手ではありませんが、それと同じように立体曼荼羅を構成しており、中に入ってお参りすることができます。

ちなみに、覚鑁上人の教えのかたちは、高野山上から根来寺に完全に移るまで約270年かかっているそうです。
その最後に大塔が完成して、移転の完成をみるのですが、それが明応5(1496)年。
それ以来、秀吉の根来攻めにも耐えて現在に残っています。

その頃の弾痕もまだ残っているので、参拝される方は探してみてください^^

大塔の手前には、弘法大師 空海の像を安置する大師堂があります。

根来寺 大師堂

大師堂は、大塔とともに根来攻めに耐えた貴重なお堂で、明徳2年(1391年)に建立された、根来寺山内で一番古い建物です。
重要文化財に指定されています。

そして、根来寺の本堂ともいえるのが、大塔と並んで立つ大伝法堂。

根来寺 大伝法堂

写真は撮影禁止なのでありませんが、中には大きな仏像が三体並んでいました。

真ん中にはご本尊の大日如来、向かって右脇には金剛薩埵(こんごうさった)、左に尊勝仏頂(そんしょうぶっちょう)

中央の大日如来は二丈一尺(約3.3メートル)、両脇仏はそれより少し小さめの二丈という大きさ。
3メートル超えの仏像が3体も並ぶと迫力があります。

それにしても、この並びも珍しいですね^^

大日如来は全知全能の仏で、絶対的な存在なので、本尊になるのはわかります。
そのお隣、金剛薩埵は、大日如来の教えを直接聞く、修行者の代表みたいなものです。

大日如来の言葉は深遠過ぎて私たちに直接理解できませんが、それを金剛薩埵が私たちにわかるように伝えてくれるという感じですね。

尊勝仏頂は、「仏頂尊勝陀羅尼経」というお経の功徳を説く仏で、天子の災いを除く絶大な効能があるのだそうです。
なので、時の権力者は尊勝仏頂の信仰が盛んだったんです。
根来寺の開基は鳥羽上皇ですから、鳥羽上皇の願いもあって、尊勝仏頂が置かれたのかもしれませんね^^

根来寺の御朱印

根来寺には、いくつか御朱印があります。

  • 真言宗十八本山 興教大師
  • 神仏霊場 和歌山第九番札所 大日如来
  • 近畿三十六不動尊霊場 第三十四番札所 不動明王
  • 紀伊之国十三仏霊場 第一番札所 不動明王
  • 愛染明王

の御朱印があります。

現在は真言宗十八本山の御朱印だけ頂いています。

根来寺 真言宗十八本山 御朱印

本坊・寺務所で頂きました。
ちなみに、普通に札所用じゃない御朱印を頂く場合も、「興行大師」と書かれるようです。

不動明王と愛染明王の御朱印は、本坊ではなく、不動堂で頂けます。


今回は不動堂については紹介しませんでした。
不動堂には「三国一のきりもみ不動」と名高い不動明王が祀られているのですが、秘仏なんです。

それが毎年2日、1月28日の初会式の時と、8月28日の夏会式の時だけ。
特に10時と14時の法要後の壇巡りでは、特別に内陣に入ることができて、間近で参拝できるそうです。

なかなかその日を狙って訪れるチャンスはありませんが、できればその時に行ってみたいですね^^