きぬかけの路

竜安寺は元々、藤原北家の流れを汲む徳大寺家の山荘でしたが、それを細川勝元が譲り受け、創建された禅寺です。
(細川勝元は、応仁の乱で東軍の大将をしていた人物です。)

竜安寺は世界遺産にも登録されているお寺で、有名なものといえば、やっぱり枯山水の石庭ですよね^^
それから、水戸黄門こと水戸光圀が寄贈したという蹲踞(つくばい)も見どころの一つ。

今回は、そんな竜安寺の石庭と、蹲踞について紹介します。

15の石が不思議な空間を表現する竜安寺の石庭

竜安寺には、このお寺の名を世界的に有名にした「石庭」とよばれる枯山水庭園があります。

竜安寺 石庭

白砂に15個の石が配されているだけという、わずか75坪のシンプルな庭です。
まるで山水画の世界が3Dで表現されたようですね。

しかも、時代も、作者も、作られた意図ですら定かではない謎の庭。

それがなぜ世界的に有名になったのか?というと、昭和50年にイギリスのエリザベス女王が来日した際に訪れたからです。
竜安寺での石庭拝観は、女王自らのプランだったといいます。

住職は、

「この庭は宗教的な哲学的な庭であって、鑑賞したり見たりする庭ではありません。
せっかくいらしたので、瞑想にふけってみてください。」

ということを伝えたのだそうです。
白砂と土塀とのコントラストが美しい、と感慨深げにご覧になっていたそうですが、女王は何を感じ取ったのでしょうか?^^

竜安寺 石庭

この庭は、単に有名だからといって見に来るだけでは、なかなかわかりにくいところがあります。

そこにあるものを見るのか、ないものを見い出すのか。

石庭は15個の石のみという、表面的には単純なのですが、じっと見ていると、新しい発見がある、という人もいます。
昔のこととか色んな事が浮かんでくる、という人もいます。

日本美術の特徴の一つに「余白の美」というものがありますが、この庭も余白の美を生かした芸術ともいえるでしょう。
余白があるから解釈の自由度が増えますし、千差万別の感じ方があるわけです。

だから、自分と向き合うためにここに瞑想をしに来た、という人も結構いるようです。

ただ、竜安寺は昔は比較的静かに拝観できるお寺でしたが、最近は外国人観光客が増えてきました。

お昼ごろになるともう人がいっぱいで、ゆったりとした時間の中で鑑賞することは難しくなりますので、静かな中で向き合いたい方は、朝早くから行くことをおススメします。

竜安寺の石庭は「虎の子渡しの庭」とも呼ばれている

竜安寺 虎の子渡しの庭

自由に感じ取るのが苦手、という方は、一般的な見方からこの庭の意味を考えてみるのも面白いかもしれません。
一般には「虎の子渡しの庭」と呼ばれています。

あくまで後で考えられた意味付けでしかありませんが、その意味は、母虎が3匹の子を産むと、そのうちの1匹が豹だった、という設定に始まります。

豹は母虎の目を盗んで子虎を食べようとしています。
母虎は、一度に一匹しか連れてわたることができません。
川を渡るとき、母虎はどのようにしたらよいのか?

その答えが石の組み合わせにあるといいます。

どれが虎でどれが豹なのか?
どの石がどの状態なのか?

一見ではそれすらわかりませんが、じっと見ていると何かが見えてくるかもしれませんね^^

15の石の配列の謎

竜安寺 ミニ石庭
※寺務所前に置かれていたミニ石庭

石庭には15個の石が配置されているのですが、左から5・2・3・2・3に配置されています。
それを三群に分けると、7・5・3に分けられます。

このことから「七五三の庭」とも呼ばれています。

今でも子供の通過儀礼として七五三が行われていますが、奇数は古来、めでたい数字とされていたので、その縁起を庭に取り入れた、という説からきています。

そしてこの15個の石を一目で見られる位置はない、といわれています。
確かに、廊下を歩きながら見ると、必ず三群の大きな石が小さな石を隠すので見えなくなります。

これは偶然なのか、意図的なのかわかりません。

唯一全てが見られるのは空からのみ。
ドローンを飛ばさないと見れませんね^^;

竜安寺 石庭の作者は誰なのか?

竜安寺の石庭の作者は誰なのか?
それは未だにわかっていません。

竜安寺は応仁の乱で七堂伽藍を焼失して、一時洛中に移転しています。
その後、細川勝元の子の政元が今の地に竜安寺を復興しています。

お寺の見解としては、その時に造られたのではないか?としています。

しかしこれには決め手がありません。

唯一手掛かりになりそうなのが、築地塀に一番近い二石の横石の後ろ。

竜安寺 刻印石

方丈側からは残念ながら見えないのですが、この石の後ろに「小太郎」「清(彦)二郎」という名前が彫られているのだそうです。

庭の作者と関係がありそうですね。

室町時代には、将軍に仕える同朋衆という職人集団がいました。
庭師部門では善阿弥が重用されていて、その子の小四郎、孫の又四郎の名前が残っています。

小太郎、清(彦)二郎もその集団の一員だったのかもしれません。
ただ、それも書体が江戸時代風とする見解もあります。

天正16年(1588)、豊臣秀吉が、前田利家などの家臣を連れて竜安寺を訪れています。
そこでその時、歌を詠んでいるのですが、参加者全員が石庭のことは触れず、絲桜を詠んでいるのです。

秀吉の時代にはまだ石庭はなかったのでしょうか?

そしてもう一つ、江戸時代後期の寛政11年(1799)年に出版された京都の名所案内「都林泉名勝図会」(国際日本文化研究センター蔵)では、石庭が紹介されています。
この時点では石庭は存在して、しかもその頃にはもう名所だったんですね。

しかしそこにはまた違う謎があるんです!

リンク先を見るとわかりますが、そこには、今とは異なり庭に入ることができたような絵が描かれています。
昔は庭に入れたのでしょうか?

そしてそこにはまだ謎が。
それは、江戸時代の石庭の図には砂紋が描かれていないということです。

砂紋とは、下の写真のように、水を表現するために白砂に描かれる模様のこと。

竜安寺 石庭 砂紋

砂紋は現在、週に一度学僧によって描かれます。
雑念を追い払い、心を静めていないと、鮮麗な砂紋が得られないそうですので、これも修行の一つなのでしょうね。

都林泉名勝図会に描かれた石庭では、砂紋を省略したのでしょうか?
しかし、同じ都林泉名勝図会の銀閣寺ではそれをきちんと描いています。

竜安寺の方がシンプルな図なのに、竜安寺だけ砂紋を省略する理由はあるでしょうか?

砂紋は当初あったのか?なかったのか?

ここでも謎は深まるばかりです。

今後作者がわかる発見があれば、大きなニュースになりそうですね^^

徳川光圀が竜安寺に寄進!禅の真髄が書かれた蹲踞

竜安寺 つくばい

方丈の裏手には、竜安寺のもう一つの名物、蹲踞(つくばい)があります。

蹲踞は、安土桃山時代に露地(茶庭)が発達した時に、茶室の前に置かれるようになったもので、茶室に入る前にここで手を清めるためのものです。

その形は茶道の流派や茶室を造った茶師によって色々で、上の写真は永楽銭の銭形をした「竜安寺型」と呼ばれるもの。
水戸黄門こと、徳川光圀が寄進したことで有名です。

ただし、方丈裏で見れる蹲踞は実際の大きさのレプリカ。
本物は竜安寺 茶室の蔵六庵にあります。

この蹲踞には、中央の水溜めの周りに文字が書かれていますが、それらはすべて、中央の水ダメを「口」の字に見立てて、

吾唯足知(われただたるをしる)

と読みます。

今の己に満足し、全ての恵みに感謝せよ、という禅の教えです。

お釈迦様の遺言となっているお経で「仏遺教経」というものがあるのですが、そこに

「知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」

と書かれているところからとっているそうです。

現代は物に溢れた時代で、もっと良いものを・・・と追いかけたり、他人と比較したりする傾向がありますが、いくら富を持っても、知足の心がなければ欲望は増すばかり。

実は現状で足りていることを自覚する、ということが大事なわけです。
わかっているようで実は奥が深いですね。

竜安寺の御朱印

竜安寺の御朱印です。

竜安寺 御朱印

「石庭」という文字の重厚感、「吾唯足知」の印。
かっこいいですね^^

そして竜安寺にはオリジナルの御朱印帳が販売されています。

竜安寺 御朱印帳

石庭の御朱印帳と蹲踞の御朱印帳です。
竜安寺らしくて良いですね^^

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