醍醐寺 総門

奈良から京都へ続く奈良街道沿いにある醍醐寺。
貞観16年(874)、空海の孫弟子にあたる理源大師・聖宝によって開かれた古刹です。

1100年以上の歴史がありますが、その歴史の中で真言密教の大本山、西国三十三所第11番札所の観音霊場として、または修験道の聖地として栄えました。
また、晩年の豊臣秀吉が行った豪華絢爛な花見「醍醐の花見」といった大イベントが行われたりなど、色々な面で歴史に名を残すお寺です。

寺域は笠取山(醍醐山)の山上の「上醍醐」、その麓の「下醍醐」からなり、合わせて200万坪!
しかも、国宝約7万点、重要文化財約6500点、未指定のものも含めると15万点もの寺宝を所有する文化財の宝庫なのです。

丸1日かけても全てをまわりきれそうもない規模ですね^^

下醍醐だけでも参拝できる有料エリアは分けられていて、豊臣秀吉が自ら設計した庭園のある「三宝院」、醍醐寺の寺宝を保管している「霊宝館」、醍醐寺の諸堂が建ち並ぶ「伽藍」の3エリアに分かれています。

三宝院霊宝館は別記事で書きましたので、今回は伽藍エリアです。

醍醐寺の原点「上醍醐」と、醍醐天皇の御願で開かれた「下醍醐」

醍醐寺は元々、理源大師・聖宝が醍醐山の山上で如意輪観音像、潤帝観音像を安置するために開いた、聖宝の私寺でした。
その創建は貞観16年(874)。

聖宝は当時、真言宗を代表する僧で、宮中でも仏事を行ったり、都でも名を知られるような存在です。
優れた門弟もたくさんいて、聖宝の後を継いで醍醐寺は栄えるようになります。

それから後の延喜7年(907)、醍醐天皇の時代になると、このお寺は醍醐天皇の帰依を受けて御願寺となりました。
母親がこのあたりの出身だったんですね。

このようにして寺格が上がっていくと、山上の観音堂に礼拝しにくる人が増えたのですが、山上には大きな堂塔を建てる平地がなく、たくさんの人々が行事で集まる場所はありません。
また、急な山道を登ることが難しいという人も少なくなかった、といった様々な理由から、山の麓の平地にも伽藍が整備されました。
それが現在の「下醍醐」です。

このように、最初は山上で開かれて、次第に下醍醐に遷っていったのが醍醐寺です。

その後、何度も火災や兵火にあって、極めつけは室町時代に起きた応仁・文明の乱。
わずかに南大門、東門、五重塔が難を逃れますが、それ以外の堂宇は焼けてしまうという大被害を受けてしまいます。
そんなときに、豊臣家が援助を引き受けて復興し、現在に見るような姿になっています。

「文化財の宝庫」といわれるまでになったのも、豊臣家のおかげですね^^

醍醐寺の玄関、仁王さんが立つ西大門

醍醐寺 総門

醍醐寺の総門となっているのは、奈良街道沿いにある西の門。

西の門から続く参道「桜馬場」は、無料で見られる桜の名所でもあります。

醍醐寺 桜馬場

この参道を真っすぐ行くと、仁王門となっている西大門があります。

醍醐寺 西大門

写真のように、桜の時期は見上げると桜に覆われる景色になる、綺麗な場所です^^

ところで、お寺の入り口は普通、南に面しているのが一般的ですが、醍醐寺は西になっているんですね。
実は元々は、東大門、南大門、西大門と、3つの大門があったのです。

実際、現地に行くと、金堂から真っすぐ南に参道が伸びていますし、五重塔を横にして南門があります。

元々は南大門が正門だったのですが、奈良街道という当時の京都と奈良を結ぶメインストリートがすぐ西側にあったので、西大門からの参詣者が多く、南大門の利用は少なかったのだそうです。

現在の西大門には、両サイドに仁王さんが立っていらっしゃいます。

醍醐寺 仁王門

醍醐寺 仁王像 醍醐寺 仁王像

この仁王さんも、秀吉が行った復興の時に、南大門から移されました。

頭が大きく、ずんぐりとした仏容ですね^^
この2体の仁王像は、平安時代後期となる長承3年(1134)、大仏師勢増、仁僧による作。

平安後期の仁王像は作例が少ないそうです。
しかも醍醐寺の仁王像は、作られた年代までわかっている貴重なものなのだとか。

そして醍醐寺の仁王門には、下伽藍の守護をする狸神「権六さん」が住んでいるという民間伝承があります。

権六さんに油揚げを供え、

「権六さん、権六さん、歯の痛いのをなおしておくれやす。」

とお願いして、後を振り向かずに帰ると、家に着くころには歯痛が治るといわれています。

醍醐寺の信仰の中心、薬師如来を祀る金堂

醍醐寺 金堂

下醍醐の信仰の中心地、金堂(国宝)。
正面7間、側面5間、入母屋造りで本瓦葺きの大きな建物です。

下醍醐に伽藍が整備されることになった時、一番最初に建てられたのが金堂(こんどう)です。

現在は薬師如来が祀られており、脇侍に日光・月光菩薩、そして四天王がいらっしゃいます。

実はこの金堂、創建当初はお釈迦様をまつる釈迦堂でした^^
仏様も、釈迦如来を中心に、脇侍に文殊・弥勒菩薩です。
「普賢菩薩」じゃなくて、「弥勒菩薩」になっているのが珍しいですね。

現在は見られませんが、当時は釈迦堂の後ろに講堂があって、金堂の左右からは回廊が伸び、前庭を囲んでいたそうです。
前庭には経蔵、鐘楼などがあったそうです。

四天王寺や法隆寺などと似たような、古い時代の伽藍配置がここにもあったんですね。

釈迦堂は醍醐天皇の御願で建てられたものです。
醍醐天皇は皇太子が相次いで若くして亡くしていたんですね。
元気な皇太子が生まれ、立派に成長するよう願いを込めて建てたのです。

「金堂」と称するようになったのは、鎌倉時代のこと。
仏教では仏のことを金人と称することがあるんですね。
金人がいるお堂なので、「金堂」なのです。

そのような金堂ですが、時代の流れの中で薬師如来に変わっていきます。

永仁3年(1295)におきた、一部の暴徒による放火、そして文明2年(1470)の文明の乱などで灰燼に帰してしまいます。
当然ながらご本尊も失ってしまうんですね。

それから100年以上経って、豊臣秀吉が醍醐寺で花見を計画し、伽藍の再興をすることになります。
秀吉は花見の儀式に間に合わせるべく、紀伊国(和歌山県)湯浅にあった満願寺の本堂を移築することにしたんですね。

そうやって建てられたのが現在の金堂です。
薬師三尊像は、その時にいらっしゃったようです。

なので金堂の本尊は薬師如来となっていますが、根本本尊は釈迦如来なのだそうです。

金堂前は広い庭になっていて、たくさんの人で賑わう「豊太閤花見行列」や、「五大力尊仁王会」といった行事も、ここで行われます。

醍醐寺 金堂 前庭

金堂前から庭を眺めると、背後に五重塔が見える素晴らしい景色^^

醍醐寺 金堂 前庭

金堂の横には大きな桜の木もあります。

醍醐寺 金堂 桜

桜の時期に行くととてもきれいです^^

唯一現存する創建当初の建物、五重塔

醍醐寺 五重塔

金堂の東南に位置するのが天暦5年(951)に建てられた、五重塔(国宝)。
醍醐寺は幾多の火災や兵乱に巻き込まれていますが、そんな中で唯一現存する創建当時の建築物です。
京都に残る最も古い建物となります。

この塔は、醍醐天皇の後を継いだ朱雀天皇が、父・醍醐天皇の冥福を祈るために承平元年(931)に発願したものです。
朱雀天皇は父天皇ゆかりだった醍醐寺に帰依し、その次の天皇である弟の村上天皇に皇位を譲って、建設に力を入れました。

しかし、朱雀天皇を始め、建築の中心人物が亡くなったりなど、思うように工事がはかどらずに中断することもありましたが、発願から20年かけてやっと完成したのだそうです。

醍醐寺の五重塔の高さは38.2m。
その3分の1がてっぺんにある長い九輪(くりん)で、これがあるおかげで安定感を保っているのだそうです。

天正13年(1585)の大地震で五重目の軒や屋根が落ちてしまい、九輪が弓なりに傾いた状態にまでなったんですね。
そんな五重塔も秀吉が修理を行い、持ち直しています。

そのような被害はあったものの、千年以上の大昔に苦労して建てた塔が今も残っているなんて、感慨深いですね^^

塔の初重の柱や板壁には、真言密教の世界観を表した両界曼荼羅図、そして真言八祖像が描かれていて、真言八祖像の中でも空海像は、、現存する空海の画像としては日本最古です。

普段は内部は拝観することはできませんが、毎月29日(2月は28日)、醍醐天皇のご命日に合わせて、五重大塔開扉納経法要が行われます。

その際に写経奉納が行われるのですが、写経奉納された方のみ、五重塔内部を四方の扉の外側から拝観することができます。
(伽藍拝観料600円とは別に、写経奉納料1,000円が必要)

法要の時間が決まっていて、午前10時30分~と、午後1時30分~の2回、それぞれ(約1時間)です。
当日は「醍醐市」も開催されますよ♪

観阿弥・世阿弥の運命を変えた!醍醐寺の鎮守神「清瀧権現」を祀る清瀧宮

信仰の中心となる金堂や、写真写りの良い五重塔に人が集まる中、ひっそりとした雰囲気なのが、五重塔にま向かう西側にある清瀧宮。

清滝宮 下伽藍

醍醐寺の総鎮守、清瀧権現(せいりゅうごんげん)を祀る宮です。
上醍醐の准胝観音・如意輪観音が本地(本当の姿)となっています。

醍醐寺では最初は寛治3年(1089)、時の座主・勝覚僧正によって上醍醐で祀られていたのですが、その9年後に下醍醐にも分身を遷して祀ったんですね。
こちらの宮は、下伽藍本殿となっています。

しかし醍醐寺の縁起によると、開創に関わっているのは「横尾明神」という地主神。
それに対して清瀧権現は、空海と共に中国の青龍寺から渡ってきた神様です。

青龍寺は、空海の師匠、恵果阿闍梨が住寺だったお寺です。
そこから海を渡ってきたので、「青龍」の字それぞれに、水にちなむ「さんずい」が付いて「清瀧」となったそうです。

横尾明神が地主神であるのに対し、清瀧権現は、真言宗の開祖、空海が連れてきたグローバルな神。
横尾明神も崇敬されているのですが、お寺に箔をつけるなら、清瀧権現をイチオシした方がインパクトは大きくなりますので、こちらを総鎮守にしたのかもしれません^^

清瀧宮の本殿前には立派な拝殿がありますが、かつては舞殿や不断経所、楽屋などが造られ、盛大に神事猿楽が奉納され、御神宝も増加したのだそうです。
その御神宝の増加と共に本殿が狭くなったので、宝殿の寸法を増して、現在の一棟の本殿になっています。

それほど丁重に祀られた神様なのですが、実は室町時代初期の猿楽師、観阿弥(かんあみ)世阿弥(ぜあみ)親子も猿楽を奉納したことがあります。
観阿弥・世阿弥親子は猿楽(現在の能)を大成した人物ですよね。

実はこの親子、猿楽を奉納しただけでなく、醍醐寺でその後の人生を大きく変える出来事に遭遇しています。

観阿弥・世阿弥親子は大和四座の一つ、結崎座を率いていました。
主にならの興福寺や春日大社で奉納を行っていたんですね。

醍醐寺の方は、いつもなら同じく大和四座の一つである榎並座が奉納の権利を持っていて、奉仕に勤めていたのですが、それに支障が出た場合は他の座の猿楽師が代演を行っていました。

ある時、その代演の機会で奉納することになったのが観阿弥・世阿弥親子です。
醍醐寺で7日間の興行を行ったところ、その素晴らしさにたちまち評判になり、京中に名を轟かせることになったんですね。

その評判を聞きつけた、時の将軍、足利義満は、父子に演能させ、それをたいそう気に入り、観阿弥・世阿弥親子を庇護するようになったのです。

そのきっかけを作ったのが醍醐寺清瀧宮なのです。

醍醐寺の御朱印

醍醐寺の御朱印はいくつかあります。

  • 総本山醍醐寺:薬師如来
  • 西国三十三所観音霊場:准胝観音
  • 西国薬師霊場:薬師如来
  • 真言宗十八本山:薬師如来
  • 近畿三十六不動:不動明王
  • 神仏霊場会:薬師如来
  • 役行者霊蹟札所:役行者

です。
霊場がいくつもあるので薬師如来がかぶりますが、それを省くと全部で4種類です。
全て下醍醐の観音堂で頂くことができます。

西国三十三所観音霊場は、以前は上醍醐で頂いたのですが、2008年8月24日におきた落雷で准胝堂が焼失してしまったんですよね。
なので、上醍醐の准胝堂が再建されるまでは、下醍醐の「観音堂」で受けることができます。
本来は片道1時間ほどの上醍醐への登山が必要ですが、今は麓で受けられるので、出来れば登山を避けたい方もいらっしゃると思いますので、そういう場合は今のうちですね^^

観音堂は、元々は大伝法院の大講堂だったのですが、この落雷の件を機に、「観音堂」に改名したのだそうです。

また、他にも三宝院の弥勒菩薩の御朱印がありますが、こちらは三宝院で頂きます。

まずは西国三十三所霊場 第十一番札所 准胝観音の御朱印です。

醍醐寺 西国三十三所 准胝観音 御朱印

西国薬師霊場 第三十九番の御朱印です。

醍醐寺 西国薬師霊場 薬師如来 御朱印

真言宗十八本山、薬師如来の御朱印です。

醍醐寺 真言宗十八本山 薬師如来 御朱印

不動明王の御朱印です。

醍醐寺 五大力尊 御朱印

「五大力尊」と書かれています。
醍醐寺には、大威徳明王、軍荼利明王、不動明王、降三世明王、金剛夜叉明王の五大明王がいらっしゃいます。
そのボスが不動明王ですね^^

この五大明王を合わせて「五大力さん」といいます。

役行者の御朱印です。

醍醐寺 役行者 御朱印

役行者の諡は「神変大菩薩」といいます。
なので、「神変」と書かれています。


醍醐寺は「醍醐の花見」で知られるように春の桜が有名ですが、秋の紅葉も有名です。
秀吉は花見の後、三宝院の庭園に力を入れるのですが、この庭園は紅葉のために造っているんですね。

下醍醐の伽藍の一番奥、弁天堂周りもキレイに彩ります。
霊宝館も春と秋に開館しますので、春秋の醍醐寺は見ごたえがありますよ^^

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