浄土真宗とは何か

「阿弥陀如来の本願を信じ、念仏をすれば仏となることができる」

という信仰が根本教義となっている浄土真宗。

その開祖「親鸞(しんらん)」は理想化されて語られがちですが、この本は神聖視された親鸞ではなく、歴史学の立場から親鸞の教説、家族や弟子たちに至る信仰の実態を論じた本になっています。

学術的な本は難しいものばかりですが、この本は丁寧な説明が入り、読みやすいです^^

平安時代の人々にとって、極楽浄土に往生できるかどうかは切実な問題。
時代の状況や、その時代に広がっている思想が反映されて、往生するための様々なスタイルが生まれます。

どうすれば往生できるのか。
あの人は〇〇なやり方で亡くなったけど、そのやり方で本当に往生できたのか?

実際に極楽往生したかどうかは確認することはできませんから、先人の亡くなるところを参考にしようにも、不安は残りますよね^^;

なので、先人のやり方を参考にしながらも、よりベストなやり方を導き出し、マニュアル化していく。
そして「臨終行儀」なる儀式が作られていきます。

さらには臨終行儀では高声(大きな声)で念仏を称えるとより効果があるとされたり、臨終間際に念仏に集中するのは難しいことから、元気なうちに念仏を称えて、それから自害するという「自害往生」という考えも生まれました。

とにかく当時の人々は、往生するためのあれやこれやを必至に取り組んでいたわけです。

そのようにして作られたのが平安時代の浄土教なのですが、その後の鎌倉時代に登場したのが「親鸞」。

親鸞はそれまでの往生の仕方を否定するんですね。

親鸞は、念仏には「自力の念仏」と「他力の念仏」があり、「他力こそが重要である」と説いています。

  • 自力:自分の力によるもの
  • 他力:阿弥陀仏の力によるもの

自分で行をしたり、臨終行儀を行うことは「自力」になってしまいます。
重要なのは、阿弥陀如来を心から信じること。

自力の行をすることは阿弥陀如来を信じていないことになる、というわけです。

しかし、平安時代から浸透している考えを否定し、それを根付かせるのはなかなか難しいものです。
親鸞自身も過去の常識にいつの間にか縛られた考えを持ってしまっており、それが文献として残っています。

この本の帯は

「『自力』と『他力』のはざまで」

となっていますが、まさに親鸞も迷いが生じているんですよね^^

そして親鸞の家族や、その後に続く門弟たちも、親鸞の教えを忠実に実行したのか、というと必ずしもそうではありません。
親鸞の考えをベースにしながらも、最後は臨終行儀をしていたり、平安浄土教の考え方をなかなか捨てきれません。

この本は、親鸞をはじめ、その家族、そして親鸞の教えの継承者たちは、どういう考えを持って信仰し、実際の臨終はどうだったのか、を追っていきます。

そして当時は密教も盛んで、困ったことがあれば密教の呪術に頼るのが当たり前だった時代。
密教の呪術に対して、親鸞たちはどう向き合っていたのか、というのも書かれているのも面白ポイントです^^

「極楽往生」という思想はどういうものなのか、知りたい方はなかなかオススメな本です。